2020年06月06日
能高山−8
【写真説明】今回掲載した三枚は、何度も(但し、その数を数える余裕無し)頂上岩峰を騙されながら、漸う三角点埋定地点を望める場所迄到達した地点から撮影した仕掛けになっているが、実際は三枚とも下山時の撮影である。三枚の内左写真が頂上との標高差が一番大きい。筆者の背中側が頂上方向である。登攀中常に仰ぎ見られる一番手前の岩峰が頂上では無い事は予想していたが、最も南側の岩峰が実際の頂上であろうとは考えてもみたくない事だった。(続く)
2020年05月23日
能高山−7
2020年05月09日
能高山−6
【写真説明】卡賀爾山直下の鞍部の東側、山頂山塊と、鞍部の西側の低い丘のスロープは併せて、そこから南側に正にそそり立つと謂うに相応しい、能高山を望む大きな窓枠といった感がある。この一枚のパノラマ写真がその証明である。撮影時間は偶然にも2019年10月10日、午前10時00分、間もなく霧が吹き上がって来る時間が迫りつつある。従って頂上往復日帰りの場合、往路だけでしか見れない眺望になる。能高山山頂部は南華山〜卡賀爾山稜線登山道から見え隠れしているが、本当の山頂を特定するのは難しい。もう一枚、卡賀爾山を背中に、鳥嘴尖岩山越しに能高山主峰山塊が明確な多少大判の写真と下山時に撮影した同峰の能高越嶺古道からの眺望を並列させた。卡賀爾山、鳥嘴尖岩山、能高山主峰の連続した輪郭が彰かだ。後者は日本時代も盛んに撮影されたと想像される地点である。(続く)
2020年04月25日
能高山−5
【写真説明】卡賀爾山は、尖峰である能高山主峰に程好い間隔で腰を据え、而も能高山とは対照的な堂々たる山容で対峙しているにも拘らず、測量基準点が無く、又、台湾百岳の一座でも無い。それで、卡賀爾山頂上直下の鞍部まで辿り着き、その東側にある頂上迄の距離が200bと表記された指導標(左写真)を見ても、足が動かず、暫くグズグズしていた。確かに200bは直ぐだったし、山頂からの眺望は360度全く遮蔽物無しなのだが、地籍三角点でも陸測三角点でも測量基準点標石が無い頂上と云うのは味気無いものである。黄色のプレート(中央写真)のみを登頂の証として撮影した。右写真はハイカーで賑わう卡賀爾山下鞍部を頂上から見下ろした。(続く)
2020年04月11日
能高山−4
2020年03月28日
能高山−3
【写真説明】63号電塔を過ぎて、卡賀爾山頂上下鞍部を目指すべく、先ず岩峰を越える。左写真はその岩峰の遠望。中央写真は岩峰に取り付くハイカー。ここで顔は青ざめすっかりへたり込んでしまった、登山初心者と思しき女性ハイカーを見掛ける。或るパーティーに参加していたようなので、このまま撤退するにしても他のメンバーも大変だろうなあ、と思いつつ遣り過ごした。能高山から下山途中、頂上間近い所で登って来る同じハイカーに出会い脱帽した。右写真は岩峰の最高点。この岩峰を越えると二段目の大草原に迎えられ、卡賀爾山が見通せるようになる。その際撮影した一枚は「南華山−3」に掲載したが、同地点で撮影したパノラマ写真を加えた。前回投稿記事に掲載したパノラマ写真との違いは、標高、前回が第一段目、今回が第二段目の大草原風景。(続く)
2020年03月14日
能高山−2
【写真説明】能高越嶺古道東西分岐点を南華山〜卡賀爾山稜線に向かい西側に切り上がると、そこは玉山箭竹に覆われた台地状になっている。この台地状を為す稜線と玉山箭竹の大草原の様子は既に「南華山−3」で紹介済みである。この台地状の中を貫く登山道は、やがて岩峰に突き当り急激に高度を稼ぎ、そこを乗り越すともう一段、更に広大な草原になるのだが、先ずは、筆者手元の市販地図に「63号電塔」と記載された、これまで紹介したのとは別の東西輸電線(高圧電線)に往き当たる。この時まで「電線の万里の長城」は一本と勝手に思い込んでいたので、意外な思いがした。能高山迄の稜線上には露営に適した場所は数多くあるが、点在する池塘を頼りにしたものである。この鉄塔下も格好の露営地である事を、復路小雨のそぼ降る中、数張りのテントを目撃して気付いた。ここに掲載した左写真は、63号電塔を目指す途中の稜線の展望、鉄塔越しに能高山南峰が覗く。中央写真は電塔附近から同じ稜線北側を望む。同地点からのパノラマ写真も添えた。同写真中央はお馴染みの南華山と深堀山であるが、右翼に紹介済みの奇莱主山北峰、左翼に白姑連峰(最高峰は百岳44号、白姑大山、標高3,341b)が控える。右写真は63号電塔下のハイカーの休憩風景。(続く)
2020年02月29日
能高山−1
【写真説明】このパノラマ写真は、弊別ブログ「能高越嶺古道−30:古道東西分岐点」で掲載したパノラマ写真と同地点、同時刻に撮影したものである。2019年10月、初めて足を踏み入れた稜線とその光景を一望したものである。この地点からだと目標の能高山はその頂上山塊が僅かに覗いているだけで、卡賀爾山に大部分が隠されている。同写真左側に大きく写り込んだ能高山南峰は能高山頂上に至る迄始終その威容を誇示していた。台湾ネット上に能高山登山関連の資料は数多公開されているが、路線情報に関して言えば、各ランドマークの標高、ランドマーク間の所要時間は普く紹介されているのだが、距離情報がお粗末だ。何故だかはよく判らない。古道の方は500b置きに林務局が全国統一された国家歩道の里程標が設置されているが、一旦能高山登山道の方に入ってしまうと、判り難い里程標が不規則に建てられている。写真に残っているそれら判り難い里程標上の数字を整理すると以下の通りになる:
天池山荘=0` →能高[土|亜]口=2` →能高越嶺古道東西段分岐点=2.8` →63号鉄塔=3.2` →卡賀爾山=5.1` →能高山=8.5`
但し、これに依ると卡賀爾山〜能高山間は3`越えになってしまうが、前者山頂下鞍部に建つ里程標には「2`」の明確な表記があるので、自信が無い。要は、天池山荘から能高山頂上迄は8.5`、能高越嶺古道西段起点からの総距離は、これに13.1`を足した21.6`となりその落差は約1,300b。(続く)
天池山荘=0` →能高[土|亜]口=2` →能高越嶺古道東西段分岐点=2.8` →63号鉄塔=3.2` →卡賀爾山=5.1` →能高山=8.5`
但し、これに依ると卡賀爾山〜能高山間は3`越えになってしまうが、前者山頂下鞍部に建つ里程標には「2`」の明確な表記があるので、自信が無い。要は、天池山荘から能高山頂上迄は8.5`、能高越嶺古道西段起点からの総距離は、これに13.1`を足した21.6`となりその落差は約1,300b。(続く)
2020年02月15日
俯瞰図:能高山
▲[←俯瞰図はココをクリック]
「台湾五嶽一奇」に加え、「三高」(新高山=玉山主峰、次高山=雪山主峰、能高山)、つまり能高山登攀は、台湾百岳全登攀を夢想する以前に、台湾を代表する山岳として、先ずは登攀を完了させることが、筆者の目標だった。昨年10月に遅まきながら目標到達と相成り、ここに投稿することになった。
以前の投稿「奇莱主山南峰−1」で書いたように、最後に能高山を目指したのは2017年10月の事である。登攀予定日前夜の大雨で即座に断念した。それ以前に同座への登攀を目論んだことがあるはずだが、当時は天池山荘迄辿れば一日で頂上迄往復して、同日中に下山迄可能と気楽に考えていた。実際、当時はその位体力に自信があったのだ。六十が近づくにつれ、この自信はあっさり崩れていく。それでも最後の五十台の歳、計画を組んだ時も、天池山荘からの頂上往復は十時間以上掛かることを知っていながらまだまだ組し易しと考えていた。それから丁度二年、再び能高山登攀の計画を組んだ時は、還暦を迎えた後であり、早い事登っておかないと、機会を失うかもしれないと云う焦りに取り付かれていた。
能高山を越えて、更にもう一座の百岳、能高山南峰迄登攀する日数は確保してあったが、断固として放棄していた。又、能高山だけの登攀にしても、天池山荘との当日往復(所謂単攻)以外に、能高山を越え南峰との稜線上で一泊、翌日再び能高山を越え天池山荘迄戻ると云う二日コースもガイドに提案された。一日の歩行時間を短くする為であるが、このオプションも断固退けた。山中一泊分の荷物を担いで能高山を越える?とんでもない!哀しいかな、以上が筆者の現在の心理状態なのである。
結局、十三時間半を費やした。ガイドに依ると、通常の往復時間だとの事。中華民国登山協会ルート図だと10.6時間(歩行時間のみ)、長年筆者の頭にこびり付いていたのは後者の数字、しかも若い時分は休憩を含めてでも十時間内で往復可能と考えていた。
能高山の山容はこのブログでも弊別ブログ「台湾古道」でも相当数の写真を紹介して来た。尖峰である。ところが、Google Earthで俯瞰図を作ると、この尖峰のイメージが出来上がらなかった。仕方が無いので、スケールを200%とした。南華山から能高山山頂の間の稜線上の「障害物」は一に卡賀爾山、二に岩である。又、能高山南東側には常に奇怪な能高山南峰が鎮座している。この山塊が目前に迫った時、つくづくその峰に登攀を試みると云う暴挙に出ずに良かったと思うことだった。(終り)
「台湾五嶽一奇」に加え、「三高」(新高山=玉山主峰、次高山=雪山主峰、能高山)、つまり能高山登攀は、台湾百岳全登攀を夢想する以前に、台湾を代表する山岳として、先ずは登攀を完了させることが、筆者の目標だった。昨年10月に遅まきながら目標到達と相成り、ここに投稿することになった。
以前の投稿「奇莱主山南峰−1」で書いたように、最後に能高山を目指したのは2017年10月の事である。登攀予定日前夜の大雨で即座に断念した。それ以前に同座への登攀を目論んだことがあるはずだが、当時は天池山荘迄辿れば一日で頂上迄往復して、同日中に下山迄可能と気楽に考えていた。実際、当時はその位体力に自信があったのだ。六十が近づくにつれ、この自信はあっさり崩れていく。それでも最後の五十台の歳、計画を組んだ時も、天池山荘からの頂上往復は十時間以上掛かることを知っていながらまだまだ組し易しと考えていた。それから丁度二年、再び能高山登攀の計画を組んだ時は、還暦を迎えた後であり、早い事登っておかないと、機会を失うかもしれないと云う焦りに取り付かれていた。
能高山を越えて、更にもう一座の百岳、能高山南峰迄登攀する日数は確保してあったが、断固として放棄していた。又、能高山だけの登攀にしても、天池山荘との当日往復(所謂単攻)以外に、能高山を越え南峰との稜線上で一泊、翌日再び能高山を越え天池山荘迄戻ると云う二日コースもガイドに提案された。一日の歩行時間を短くする為であるが、このオプションも断固退けた。山中一泊分の荷物を担いで能高山を越える?とんでもない!哀しいかな、以上が筆者の現在の心理状態なのである。
結局、十三時間半を費やした。ガイドに依ると、通常の往復時間だとの事。中華民国登山協会ルート図だと10.6時間(歩行時間のみ)、長年筆者の頭にこびり付いていたのは後者の数字、しかも若い時分は休憩を含めてでも十時間内で往復可能と考えていた。
能高山の山容はこのブログでも弊別ブログ「台湾古道」でも相当数の写真を紹介して来た。尖峰である。ところが、Google Earthで俯瞰図を作ると、この尖峰のイメージが出来上がらなかった。仕方が無いので、スケールを200%とした。南華山から能高山山頂の間の稜線上の「障害物」は一に卡賀爾山、二に岩である。又、能高山南東側には常に奇怪な能高山南峰が鎮座している。この山塊が目前に迫った時、つくづくその峰に登攀を試みると云う暴挙に出ずに良かったと思うことだった。(終り)
2020年02月01日
南華山−3
【写真説明】能高越嶺古道の越嶺点、即ち同古道の東西段分岐点、或いは、「光被八表」記念碑設置点は凡そ、南華山こと能高山北峰と能高山(主峰)間稜線の最低鞍部を形成していると言えない事は無いが、この二座の間に、もう一つの三千b峰、卡賀爾山(3,105b)が起立している。頂上に測量基準点は無いが、奇怪にして美麗な山塊であり、台湾百岳に列せられていないのが不思議なくらいだ。能高山北峰と主峰間稜線には殆ど樹林帯が無く、玉山箭竹の絨毯が敷き詰められており、能高山を越え更に南に下る稜線も同様だと聞く。今は未だ南華山の話をしているので、竹笹の絨毯の事はこの位にしておく。これまで掲載して来た南華山を対象にした写真では、広々とした印象は感得出来るのだが、では一体南華山はどのような山容を呈しているのか?筆者自身ですら上手にイメージ出来なかった。最低鞍部を経て能高山を目指した時、初めて納得したのだ。2019年10月、南華山−卡賀爾山間稜線から北側眺望、登山パーティー後方が南華山。尚、このパーティー、筆者がカメラを向けた時、ポーズを取ってくれたのだが、筆者のパーティーでは無い。筆者の意図は彼らの色鮮やかなウェアとザックを写し込む事だった。(終り)
2020年01月18日
南華山−2
【写真説明】左写真は「能高越嶺古道−6」で掲載の一枚の再録、台湾古道ブログの方で説明した記憶があるので多くは書かないが、中央山脈を横断する「電力の万里の長城」と呼ばれる高圧電線架を南華山頂上を背にして望んだもの。2004年11月撮影。東側花蓮県と西側南投県を跨ぐこの送電線、通常、台電(台湾電力)東西輸電線と呼ばれるが、完成が1953年、天池山荘、南華山、能高山方面への三叉路近く、標高2,800b地点に蒋介石の筆になる記念碑が立つ。中央写真は、その三叉路から南華山頂上を望んだもの。2019年10月撮影。東側の碑面に「光被八表」、西側碑面に「利溥民生」と書かれているが、台湾人ハイカーにも俄かにはその意味が判らないらしく、ネット上には多くの解釈が披歴されている。「光」は恐らく日の出も暗喩し中央山脈東側発電所で集められた電力の恩恵は八方に及び、中央山脈西側、つまり西海岸側の生活を利する、と謂う意味であろう。中央写真はその記念碑、2004年11月撮影。
2020年01月04日
南華山−1
【写真説明】【俯瞰図】でも述べたが、弊別ブログ「台湾古道」で南華山に関しては書き尽くした感がある。南華山の第一回記事に掲載した左・中央写真は、古道ブログ「能高越嶺古道−5」からの再録と云う端の折りようである。南華山頂上ではかなりの枚数撮影したが、古道ブログに最も見栄えのする写真を先に選んでしまったと云うことだ。同写真とは言いながら、写真サイズが異なるので細部が看易いと思う。左写真は南華山頂上付近から北側の眺望、左から、奇莱主山南峰、奇莱裡山(3,333m)、奇莱主山、中央写真は同地点から南側眺望、左から能高山南峰(百岳43号、3,349m)、能高山。右写真は南華山、陸測三等三角点。三枚とも、2004年11月撮影。
2019年12月21日
俯瞰図:南華山(能高山北峰)
▲[←俯瞰図はココをクリック]
カテゴリー「奇莱主山南峰」でも書いたが、南華山周辺に関しては、弊ブログ『台湾古道』「能高越嶺古道」で書き尽くしてしまった。特に「能高越嶺古道−5」と「能高越嶺古道−6」では南華山の写真まで掲載した。従って、「南華山」カテゴリーの投稿記事は簡素にしたい。
ところで、南華山登頂は、天池山荘を起点の南廻り、北廻りのどちらのO線を辿っても4時間前後で一回り出来る利便さから、ネット上には山行記録が溢れているが、それらの中で「南華」の由来に触れたものにはなかなか出会えない。それでも気になる人は居るもので、『登山補給站』の中に「山名二三事−百岳山名由来部分補述」なる投稿があり、南華山も取り上げている。但し、附近に「尾上山」とか「深堀山」とか日本語に因む山名があるので、「南華山」も日本語由来かもしれない?とギブアップしている。南華は日本語としては異質で、大陸的である。いずれにしても、由来不明。
筆者にとっては能高山北峰の方が遥かに聞こえが良い。日本時代の「三高」(新高山=玉山、次高山=雪山、能高山)の内、現時点で能高山(主峰)は未踏であるだけに、「それでも能高山の一部には足跡を残したと云う子供染みた自負心を擽られるからだ」とこの投稿原稿を書いていたのだが、去る10月、筆者61歳の誕生日前に、とうとう能高山に登頂する機会に恵まれた。三高登頂完成である。
筆者が2004年11月に南華山を目指した時は、北廻りのO線を選んだ。即ち、奇莱主山南峰を目指した時と同じく、先ず天池迄登り、南峰方面への三叉路を南側に取り頂上に到り、その後は更に南下、南華山と能高山方面稜線の最低鞍部迄降り切り、山荘に戻って来るコースである。
南華山は天池迄登ってしまうと、頂上迄の落差200b弱の玉山竹箭の絨毯の緩やかな稜線を1時間弱辿るだけである。その間遮蔽物皆無の360度の眺望を堪能出来る。この豪華な眺望だけが南華山の「華(はな)」には非ず、二つの人文史を背景にした特異な風景が現出している。これらも既に弊台湾古道ブログ「能高越嶺古道」でかなりのスペースを割いて来たので詳細は繰り返さないが、南華山と能高山主峰方面を結ぶ稜線の最低鞍部を跨ぐ能高越嶺古道と1953年竣工の中央山脈東西(東花蓮県、西南投県)を跨ぐ高圧送電線「電力の万里の長城」」である。今回のダイヤグラムはこの二つの人文景観(但し、送電線は蒋介石の筆に為る「光被八表/利溥民生」碑で代替)と天池山荘を入れ込んだ。(終り)
カテゴリー「奇莱主山南峰」でも書いたが、南華山周辺に関しては、弊ブログ『台湾古道』「能高越嶺古道」で書き尽くしてしまった。特に「能高越嶺古道−5」と「能高越嶺古道−6」では南華山の写真まで掲載した。従って、「南華山」カテゴリーの投稿記事は簡素にしたい。
ところで、南華山登頂は、天池山荘を起点の南廻り、北廻りのどちらのO線を辿っても4時間前後で一回り出来る利便さから、ネット上には山行記録が溢れているが、それらの中で「南華」の由来に触れたものにはなかなか出会えない。それでも気になる人は居るもので、『登山補給站』の中に「山名二三事−百岳山名由来部分補述」なる投稿があり、南華山も取り上げている。但し、附近に「尾上山」とか「深堀山」とか日本語に因む山名があるので、「南華山」も日本語由来かもしれない?とギブアップしている。南華は日本語としては異質で、大陸的である。いずれにしても、由来不明。
筆者にとっては能高山北峰の方が遥かに聞こえが良い。日本時代の「三高」(新高山=玉山、次高山=雪山、能高山)の内、現時点で能高山(主峰)は未踏であるだけに、「それでも能高山の一部には足跡を残したと云う子供染みた自負心を擽られるからだ」とこの投稿原稿を書いていたのだが、去る10月、筆者61歳の誕生日前に、とうとう能高山に登頂する機会に恵まれた。三高登頂完成である。
筆者が2004年11月に南華山を目指した時は、北廻りのO線を選んだ。即ち、奇莱主山南峰を目指した時と同じく、先ず天池迄登り、南峰方面への三叉路を南側に取り頂上に到り、その後は更に南下、南華山と能高山方面稜線の最低鞍部迄降り切り、山荘に戻って来るコースである。
南華山は天池迄登ってしまうと、頂上迄の落差200b弱の玉山竹箭の絨毯の緩やかな稜線を1時間弱辿るだけである。その間遮蔽物皆無の360度の眺望を堪能出来る。この豪華な眺望だけが南華山の「華(はな)」には非ず、二つの人文史を背景にした特異な風景が現出している。これらも既に弊台湾古道ブログ「能高越嶺古道」でかなりのスペースを割いて来たので詳細は繰り返さないが、南華山と能高山主峰方面を結ぶ稜線の最低鞍部を跨ぐ能高越嶺古道と1953年竣工の中央山脈東西(東花蓮県、西南投県)を跨ぐ高圧送電線「電力の万里の長城」」である。今回のダイヤグラムはこの二つの人文景観(但し、送電線は蒋介石の筆に為る「光被八表/利溥民生」碑で代替)と天池山荘を入れ込んだ。(終り)
2019年12月07日
奇莱主山南峰−6
2019年11月23日
奇莱主山南峰−5
2019年11月09日
奇莱主山南峰−4
2019年10月26日
奇莱主山南峰−3
2019年10月12日
奇莱主山南峰−2
【写真説明】二回共池塘は全く干上がっていた印象が長らく残っていたので、奇莱南峰の記事を起こすに当たり当時撮影した写真を見ていたら、池塘に水が張っているので驚いた。又、その後驚いたのは弊古道ブログ「能高山越嶺古道−22」で同写真を掲載済みであることを確認したときだ。左写真は天池山荘・奇莱南峰・南華山三叉路に立つ指導標、中央写真はその指導標を含む乾燥した天池越しの北側眺望、天然のゴルフリンクそのもの。今回の目的地南峰頂上迄の距離は総延長3`しか無く、この間の標高差は丁度500b。右写真は天池一帯越しに北側往路を望む。同写真右奥に写るピークが奇莱南峰と勘違いし登攀組みし易しと糠喜びしていた。(続く)
2019年09月28日
奇莱主山南峰−1
【写真説明】左写真は2017年10月、能高山登攀を猛烈な雨風で断念した際に撮影した新装天池山荘、建築意匠が日本風家屋になっているのは、日本時代同地に鎮座していた能高神社を意識しての事だと思う。天池山荘裏側に天池への登り口(海抜2,860b)がある。最初は2004年11月、次回紹介する南華山(能高山北峰)へ登る為、二回目は2010年11月、奇莱南峰へ登る為、奇莱山方面と南華山方面の三叉路(同3,095b)まで―そこに池塘が散在する、玉山箭竹が覆い被さる凡そ1`、落差240b、一時間弱の急坂を利用した。その登りのイメージが中央写真、北西方向に玉山箭竹に覆われたなだらかなスロープを擁する深堀山山裾が見え出すと長い登りに萎えた足に力が入る。丁度朝陽が強く当たる時間帯だったので、右写真の印象は二回とも強烈。(続く)
2019年09月14日
俯瞰図:奇莱主山南峰
▲[←俯瞰図はココをクリック]
奇莱山南峰に登頂したのは然程昔でも無かろうとぼんやり記憶していたのだが、実際は2010年11月、危うく十年になろうとする。
奇莱主山南峰、南華山(能高山北峰:百岳75号、標高3,184b)の百岳二座、その長い鞍部上にある天池(池塘)、その名前を借りたこれら二座の登山基地である天池山荘、加えて、南峰から南側稜線へと辿る深堀山。。。これらの点景は過去弊ブログ『台湾古道』「能高越嶺古道」カテゴリーの中で写真掲載も併せ書き尽くした感がある。『台湾古道』ブログの左メニュートップの検索欄をご利用頂くことをお薦めする。
北峰、主山の順に奇莱主山主脈を辿りながら南峰へ至る方法はあるが、主山と南峰間が音に聞こえた難路、一般のハイカーは、一日目に能高越嶺古道西側入口から入山、能高山、安東軍山方面の登山基地でもある天池山荘まで至り、翌日、奇莱主山南峰と南華山の百岳二座を日帰りで征することが出来るのでハイカーに人気がある。
但し、2015年10月になり漸く改装完了、鳴り物入りで開放された天池山荘(「能高山越嶺古道−22」)は恐らく複数の管理団体が同居している理由で、兎に角猥雑だ。例えば、厨房への出入り口付近は煙草の吸殻が散乱している。天池山荘は台湾の高山山荘の中では玉山下の排雲山荘を含む数少ない食事が供される山荘であるが、このサービスが山を駄目にすると云うのが筆者の持論である。
天池(「能高越嶺古道−6」)とは天池山荘上方の鞍部に池塘があるからだ。天池山荘脇からこの池塘に到るまでの約1時間の登りはきつい。天池は天池山荘−南華山−奇莱主山南峰方面への三叉路である。そこから平坦な登山道を北側に約半時間辿ると南峰と主山方面への三叉路に行き当たる。南峰へはそこから西側へなだらかに見える丘を越すだけで良いように思えたのだが、実際は一時間半程度の苦しい登りだった。南峰南側、日本人の名を冠した稜線続きの三千b峰深堀山(「能高山越嶺古道-25:精英村平静(2)」)があるのだが、南峰登攀時はこの深堀山の名とその由来に関しては無知だった。
天池山荘から奇莱主山南峰まで片道約三時間の登山ルートのイメージは天池、主山・南峰三叉路、南峰、そして稜線続きの深堀山、南華山方面で出来上がる。総じてなだらかなスロープを巡る山行が約束されることをダイヤグラムに盛り込んだ積りだ。尚、当ダイヤグラム中の白線が登山道である。(終り)
奇莱山南峰に登頂したのは然程昔でも無かろうとぼんやり記憶していたのだが、実際は2010年11月、危うく十年になろうとする。
奇莱主山南峰、南華山(能高山北峰:百岳75号、標高3,184b)の百岳二座、その長い鞍部上にある天池(池塘)、その名前を借りたこれら二座の登山基地である天池山荘、加えて、南峰から南側稜線へと辿る深堀山。。。これらの点景は過去弊ブログ『台湾古道』「能高越嶺古道」カテゴリーの中で写真掲載も併せ書き尽くした感がある。『台湾古道』ブログの左メニュートップの検索欄をご利用頂くことをお薦めする。
北峰、主山の順に奇莱主山主脈を辿りながら南峰へ至る方法はあるが、主山と南峰間が音に聞こえた難路、一般のハイカーは、一日目に能高越嶺古道西側入口から入山、能高山、安東軍山方面の登山基地でもある天池山荘まで至り、翌日、奇莱主山南峰と南華山の百岳二座を日帰りで征することが出来るのでハイカーに人気がある。
但し、2015年10月になり漸く改装完了、鳴り物入りで開放された天池山荘(「能高山越嶺古道−22」)は恐らく複数の管理団体が同居している理由で、兎に角猥雑だ。例えば、厨房への出入り口付近は煙草の吸殻が散乱している。天池山荘は台湾の高山山荘の中では玉山下の排雲山荘を含む数少ない食事が供される山荘であるが、このサービスが山を駄目にすると云うのが筆者の持論である。
天池(「能高越嶺古道−6」)とは天池山荘上方の鞍部に池塘があるからだ。天池山荘脇からこの池塘に到るまでの約1時間の登りはきつい。天池は天池山荘−南華山−奇莱主山南峰方面への三叉路である。そこから平坦な登山道を北側に約半時間辿ると南峰と主山方面への三叉路に行き当たる。南峰へはそこから西側へなだらかに見える丘を越すだけで良いように思えたのだが、実際は一時間半程度の苦しい登りだった。南峰南側、日本人の名を冠した稜線続きの三千b峰深堀山(「能高山越嶺古道-25:精英村平静(2)」)があるのだが、南峰登攀時はこの深堀山の名とその由来に関しては無知だった。
天池山荘から奇莱主山南峰まで片道約三時間の登山ルートのイメージは天池、主山・南峰三叉路、南峰、そして稜線続きの深堀山、南華山方面で出来上がる。総じてなだらかなスロープを巡る山行が約束されることをダイヤグラムに盛り込んだ積りだ。尚、当ダイヤグラム中の白線が登山道である。(終り)
2019年08月31日
奇莱主山−5
【写真説明】北峰、主山のカテゴリーに掲載した写真は総じて陰気なので読者に申し訳無い事をしたと云う思いが強かった。奇莱主山主脈は自動車道上からでも良く見えるので、実際は様々な地点から撮影したものが残っているのだが、パソコンのフォルダーから引っ張り出して来るのは骨の折れる作業である。北峰が奇々怪々な山容を誇り目立つのに比べ、奇莱主山の方は然程特徴の無い山塊である。それで過去撮影したものから主山の山容が割と明確な二枚を掲載してこのカテゴリーを閉じることにする。右写真は2010年11月の撮影、以前の投稿記事「台湾百岳」について−7:「単攻」に掲載した写真と同角度から撮影したもので、主山に相応しい居座り方である。左写真は2017年7月、北合歓山への登頂時に撮影、最奥稜線の最高点が主山。(終り)
2019年08月17日
奇莱主山−4
2019年08月03日
奇莱主山−3
【写真説明】左写真は、奇莱主山頂上から北峰からの来し方を望んだもの。恥ずかしながら同写真に写る稜線のどのピークが奇莱池山か判らず。右写真は、主山登山口から更に奇莱主山主脈を北側に辿る稜線を撮影した。奇莱主山連峰中、台湾百岳に指定されているのは、北峰(3,607b、第16座)、主山(3,560b、第20座)、南峰(3,358b、第41座)の三座のみであるが、先般の投稿記事で紹介したように、北峰−主山間に奇萊池山(3,430b)、更に主山−南峰間に卡羅樓山(3,385b)と奇莱裡山(3,333b)の二座の三千b峰を擁する。北峰−南峰間の稜線には縦走路が付いているが、主山−南峰間は右写真に見る通りの険悪な稜線となり一般ハイカーを阻んでいる。通常のハイカーの第一目標は北峰登頂であり、同日中に主山への登頂が可能な為、主山攻略後は同じ稜線を引き返すのが一般ルートで、南峰は北三段奇莱主山系と同段能高山安東軍山系の境目から入山するのが常である。(続く)
2019年07月20日
奇莱主山−2
2019年07月06日
奇莱主山−1
【写真説明】左写真は08:15撮影、奇莱主山北峰頂上から南側眺望、北峰直下から奇莱主山までの稜線地勢と登山道、主山山塊(左写真左奥の尖峰)が看て取れる。同写真右奥には玉山連峰の釣尾根も観える。右写真は主山に向かいながら前回記事で触れた奇莱山屋越しに北峰方向を仰いだもの、10:45撮影。既に霧が這い上がって太陽が隠されつつあった。北峰と主山の稜線上に奇萊池山(3,430b)と冠されたピークがあり、左写真にも写り込んでいる。縦走路上にそのピークがあり何等かの標示が存在していたはずなのだが、写真に残っていない。当時はその三千b峰の知見が無かったのか、ピークは縦走路から外れた位置にあったか?思い出せない。「池山」とは付近に池塘があるから?台湾には「池山」の山名を持つ山が少なからずある筈と云うイメージがあったが、ネットで検索すると屏東県にある牡丹池山(標高554b)ぐらいしか出て来ないのは意外だった。この場合、パイワン語で高い山の意味だそうで筆者自身も登ったことがある。因みに「奇莱」はタイヤル語で雪を頂いた山の意とのこと。(続く)
2019年06月22日
俯瞰図:奇莱主山
▲[←俯瞰図はココをクリック]
奇莱主山北峰と奇莱主山の頂上間の距離は約5`程度である。中華民国登山協会ルート図だと北峰頂上から奇莱主山主脈上に設営されている奇莱山屋北側少しばかりの北峰・主山三叉路まで降り切るのに70分、そこから主山頂上まで約2時間の距離である。この間、登山道は東側玉山箭竹の草原と西側断崖の起伏の抑えられた境界上を忠実に辿るので、天気さえ良ければ快適この上無い縦走が約束されるのだが、3,500bを超える稜線上に就き然程には終日上天気に恵まれない。筆者の2003年の登山の際も、午前11時には霧が湧き出し、主山頂上に辿り着いた午後1時には既に展望が遮断されていたことが当時撮影した写真から判る。
ところで「奇莱主山北峰−3」で北峰・主山路線上に合計4箇所の露営地があると紹介した。登山口である松雪楼から数えると、黒水塘小屋、成功山屋、成功一号堡、そして最高所(3,300b)にあるのが奇莱山屋で、この内写真を残す機会があったのは黒水塘小屋と成功一号堡の二箇所のみと書いた。その後、実は主山主脈上の奇莱山屋が写り込んでいる写真が残っていることに気付いたのだが、愕然としたことには稜線登山道の東側に建っていることだった。長年、同避難小屋は登山道西側、しかも稜線より低い場所にあったと云うイメージが焼き付いていたからだ。
奇莱主山は合歓山群峰側から展望すると北峰のように特徴のある山容からは程遠く、丈の低い二等辺三角形を呈している。その存在観が鼓舞されるのは、合歓山より南側の清境農場辺りからの主山主脈の眺望だと思う。今回掲載の俯瞰図は登山に興味の無い面々の方々も幹線車道上の往復時に飛び込んで来る数多の山稜を、霧社・清境農場(上空)方面から望む奇莱主山主脈上の北峰、主山、南峰をイメージしたものだ。今は一部自動車道に取って代わられた台湾を代表する二つの古道を入れ込んでみた。(終り)
奇莱主山北峰と奇莱主山の頂上間の距離は約5`程度である。中華民国登山協会ルート図だと北峰頂上から奇莱主山主脈上に設営されている奇莱山屋北側少しばかりの北峰・主山三叉路まで降り切るのに70分、そこから主山頂上まで約2時間の距離である。この間、登山道は東側玉山箭竹の草原と西側断崖の起伏の抑えられた境界上を忠実に辿るので、天気さえ良ければ快適この上無い縦走が約束されるのだが、3,500bを超える稜線上に就き然程には終日上天気に恵まれない。筆者の2003年の登山の際も、午前11時には霧が湧き出し、主山頂上に辿り着いた午後1時には既に展望が遮断されていたことが当時撮影した写真から判る。
ところで「奇莱主山北峰−3」で北峰・主山路線上に合計4箇所の露営地があると紹介した。登山口である松雪楼から数えると、黒水塘小屋、成功山屋、成功一号堡、そして最高所(3,300b)にあるのが奇莱山屋で、この内写真を残す機会があったのは黒水塘小屋と成功一号堡の二箇所のみと書いた。その後、実は主山主脈上の奇莱山屋が写り込んでいる写真が残っていることに気付いたのだが、愕然としたことには稜線登山道の東側に建っていることだった。長年、同避難小屋は登山道西側、しかも稜線より低い場所にあったと云うイメージが焼き付いていたからだ。
奇莱主山は合歓山群峰側から展望すると北峰のように特徴のある山容からは程遠く、丈の低い二等辺三角形を呈している。その存在観が鼓舞されるのは、合歓山より南側の清境農場辺りからの主山主脈の眺望だと思う。今回掲載の俯瞰図は登山に興味の無い面々の方々も幹線車道上の往復時に飛び込んで来る数多の山稜を、霧社・清境農場(上空)方面から望む奇莱主山主脈上の北峰、主山、南峰をイメージしたものだ。今は一部自動車道に取って代わられた台湾を代表する二つの古道を入れ込んでみた。(終り)
2019年06月08日
奇莱主山北峰−6
【写真説明】奇莱主山北峰の頂上、並びに頂上からの眺望については既に本ブログ「台湾百岳について−4:三角点」で掲載したのでそちらに譲ることにして、今回は頂上直下の同じ断崖を高度を変えて撮影したものを掲載した。既に本ブログで何回も言及した台湾高山の地形的特徴である、片側が断崖、片側が玉山箭竹の草原スロープが見て取れる。(続く)
2019年05月25日
奇莱主山北峰−5
2019年05月11日
奇莱主山北峰−4
【写真説明】今回掲載した写真は2003年10月の三日間の山行に於いて、最初にシャッターを切ったものである。時刻は入山二日目朝5時54分、撮影地点は奇莱主山連峰の稜線に辿り着いていたと思う。同写真左から合歓山東峰、合歓山、石門山、北合歓山、教科書的展望。標準的と推測される時間表に拠ると成功山屋から北峰・主山三叉路迄90分、そこから北峰頂上まで160分、成功山屋から主脈稜線まで2時間程度と考えると、同山小屋露営地を少なくとも4時には出発していたとすると撮影時刻の辻褄は合う。合歓山群峰と奇莱主山連峰と東西に向き合っているので、奇莱主山主脈は合歓山群峰の最高の展望台である。今回掲載した写真を皮切りに時間と場所を変えながら合計七十枚近く撮影しているので当時はその眺望に相当興奮していた証拠である。実はその中の一枚は筆者の別ブログ「合歓山越嶺古道−7」に掲載済みである。撮影時刻は7時12分。尚、北峰・主山三叉路から主脈稜線に至るまでの急勾配を這い上がる際の恐怖感は当時の山行時の強烈なイメージである。(続く)
2019年04月27日
奇莱主山北峰−3
【写真説明】松雪楼登山口から奇莱主山方面登山道の最低地、合歓山東峰東斜面と奇莱主山連峰西斜面の鞍部となる黒水塘小屋(左写真)と指導標(中央写真)。中央写真奥に写る尖峰は北峰。当日(入山三日目)撮影した最低鞍部の景観はこれら二枚のみ。このあばら屋が今現在でもそのまま存在しているのかどうか?は台湾サイトを渉猟すればすぐ判るのだが、再訪の際の楽しみに取っておくことにする。黒水塘だから小屋の近くに池塘が点在しているのだろうが、こんな水はとても飲めないなあ、と嘆じた記憶は無し。右写真は成功一号堡と呼ばれる避難小屋、通常の露営基地である成功山屋より標高はかなり高い位置にあり、北峰−主山の稜線に近い。既述の成功大学遭難事件の後出来たはずで、当時の成功小屋より早い時期に敷設されたはずだ。同写真の撮影時間は入山二日目の夕方五時過ぎ、もう薄暗い、つまり北峰−主山の登頂を終え成功小屋目指して下山していた時だ。同登山道上には合計四箇所の露営基地があるのだが、当時撮影したのはここに掲載した二枚のみ。(続く)