2021年07月31日

白姑大山−3

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【写真説明】左写真は露営地である司晏池附近から撮影したものか、未だ露営地に行着く前に撮影したのかは記憶に無い。山行初日の一番遅い撮影時間は17時半、2月なので既に相当暗かったと思う。同写真中央上の暗い稜線は中横霧社支線に沿っており、やや右側の三角峰は文字通り三角峰(標高2,376b)で、日本時代からそう呼ばれていた。山裾は既に紹介済みの翠峰、日本時代は「追分」、この三角峰山頂、追分駐在所跡は今は台湾大学山地実験場に取り込まれているので、この合歓越嶺古道並びに沿線の遺物を踏査するには予め申請が必要だ。筆者は未だその機会に恵まれていない。最後方の山並みは光頭山、白石山、安東軍山方面か、或いは干卓万山方面かもしれない。逆に同写真下に写るのは三錐山のはずだ。中央写真は露営地、この写真は山行三日目朝、下山する日に撮影したもの。同じ露営地に二泊したのだが、写真に残っているのはこの三日目朝に撮影したもののみ。暗闇の中の帰投と出発であったことが伺える。右写真は露営地脇の池塘、司晏池のはずだ。この水を濾して飲んだかどうか?も記憶無し。(続く)
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2021年07月17日

白姑大山−2

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【写真説明】ここで、登山口から山頂迄のマイルストーンの距離、標高を紹介すると次の通りだ。先の俯瞰図に加え、もう一枚ダイヤグラムを加え、以下のマイルストーンの位置関係を判り易くした:

・登山口 (標高約2,000b)
・三錐山 (同2,570b)(登山口からの距離:約3`)(登山口との落差:約600b)
・司晏池露営地(同約2,900b)(同約5.5`)(同約900b)
・東南峰 (同3,035b)(同約6.5`)(同約1,000b)
・草青池 (同約3,200b)(同約9`)(同約1,200b)
・主峰 (同3,341b)(同約10`)(同約1,300b)

最初のマイルストーンである三錐山(陸測三等三角点)まで、落差が600bしかないのに写真データを見ると4時間弱を費やしている。上掲の三枚は、この山頂が判然とせず且つ山名の由来が判らない山に至る迄に撮影した写真から選んだ。左写真は登山口から10分程の場所に横たわっていた倒木なのだが、その後の登山道に横たわる倒木の多さを暗示しているのに気付いたのは下山時に同じ時点に戻って来た時である。右写真は三錐山三角点附近の空き地。下掲の六枚は全て三錐山を過ぎてから露営地に至る迄の間に出会った倒木集なのだが、こう並べて見ても残念ながらこれらを跨ぎながら高度を稼がなければならない苦痛は伝わってこないなあ。

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2021年07月03日

白姑大山−1

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【写真説明】先ずは白姑大山登山に関連する行政区画を確認しておきたい。台14線霧社支線翠峰(標高約2,300b)から紅香温泉に向かい急降下する部分は南投県仁愛郷力行村に属する。紅香村の行政中心と教会は同県同郷天祥村となりそこから西側白姑大山連峰稜線に至るまでを占め、稜線は台中市和平区梨山里との境界を形成している。但し、目指す白姑大山主峰のみは台中市側に属している。紅香部落(標高約1,100b)と登山口(同約2,000b)の落差は900bもあり、白姑大山連峰の東側山裾になるが、急斜面に農園が切り開かれているのは、向い側の力行産業道路支線が開鑿された急斜面も同じである。ここら辺りの土地利用は北側の梨山中心部に至るまで同様で、高い山並みと深い谷底から成る急斜面の農園の俯瞰は台湾の奇観だと思う。左写真は登山口下方から力行産業道路支線が走る向い側、翠峰方面の斜面を俯瞰したもの。前回投稿の中で埋込で掲載した写真を丁度向い側から撮影したものだ。中央写真は白姑大山連峰登山口、右写真のハイカーに対する警告板が立っているので非常に判り易い。(続く)
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2021年06月19日

俯瞰図:白姑大山

[←俯瞰図はココをクリック]

俯瞰ダイヤグラムには白「姑」の漢字を使ったが、筆者の手元の地図帳の表記に従った。偶々同山岳の陸地測量部の点の記を眺めていたら「狗」の表記になっていた。筆者の印象では現在の台湾では「姑」の使用が支配的だと思う。

今回俯瞰図を作成するに当たり苦心したのは、白姑大山を含む白姑大山連峰の位置をどう読者に理解して貰えるかであった。前回の閂山もそうだが、現在の日本人には全く馴染みの無い百岳の一座の稜線のみを強調しても意味が無いと考えたからだ。中華民国山岳協会に依ると白姑大山を含む山域は中央山脈に属する。そうすると中央山脈の最も西側の支脈で大甲渓を挟んで雪山山脈南部と対峙することになる。と云う表現も可能だが筆者の手元の市販地図では白姑大山から八仙山に連なる南側稜線には雪山山脈の表記が附されている。と云う具合に白姑大山連峰の位置は定義し辛いと云うのが筆者の印象だった。それ故、下山後もこの中央山脈支脈の位置付けが不明瞭のままだった。明瞭になったのは前出の八仙山を始めとする所謂「谷関七雄」を完登した後である。白姑大山の紹介を終えた後、続けて台中市が市民健康増進の為に毎年キャンペーンを撃っている谷関七雄も紹介する予定である。

中央山脈の西端で雪山山脈南部と対峙していると云うような表現は、グーグル・マップとかグーグル・アースで位置を特定する際役に立たない。やはり自動車道、それも幹線自動車道を手掛かり足掛かりにするのが良い。この方法だと西は彰化市街地と東は花蓮県新城を結ぶ中央山脈越えの中部横貫公路(中横)西側大甲渓に沿った段と、埔里盆地から清境農場を経て合歓山群峰に駆け上がる通称中横霧社支線とに囲まれた山域であり、南は雪山山脈南端に繋がり北は合歓山群峰に繋がるというような表現が良いかもしれない。

台8線は台湾有数の河川と云うより渓谷沿い、台14号支線は台湾自動車道最高所まで登るので両道路は大きな標高差があり、勢い台14号線から白姑大山連峰を眺められるということであり、これに気付いたのは白姑大山登山後である。

何故この山を目指したかはもう記憶に無い。考えられるのは、単攻を試みる猛者がいることを聞いて組し易しと思ったのかもしれない。筆者の場合、山中二泊して漸う下山した。

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2021年06月05日

閂山−7

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【写真説明】ここに掲げた三枚の写真は野生のツツジである。何れも730林道脇で撮影されたものであるが、左・中央写真は歩行に切り替える以前の地点で撮影、両写真同群生である。右写真群生と同種であるかどうかは自信が無い。閂山、鳴鈴山界隈は台湾固有種のツツジの一種、細葉杜鵑(志佳陽杜鵑)の群生で著名なはずである。以上は後知恵で、カメラを向けていた時分は、記録として撮影したと云うのが正直な所だ。日本では伝統的にツツジ、サツキ、シャクナゲは区別して呼称するが、台湾ではこれらツツジ目ツツジ科ツツジ属の種は杜鵑花で統一されている。学術上は、鳥類のホトトギスは杜鵑、植物のツツジ属は杜鵑花と表記し区別している。杜鵑(漢文読みだと「とけん」)は、古蜀(春秋戦国時代末期の一国、後の三国時代の蜀と区別する為にこう表記する)の杜宇(望帝)が死後ホトトギスに転生した故事に由来する。ホトトギスがツツジ属の呼称に転じたのは、白居易(白楽天)の代表作の一つ「琵琶行」の中で謡われた「杜鵑啼血猿哀鳴」の一句が背景にある。その後、「杜鵑啼血」の熟語は極度の悲嘆の譬えと成る。ホトトギスの望帝は蜀が秦に滅ぼされたのを目撃し悲憤慷慨の余り吐血する。ホトトギスの鳴声(「テッペンカケタカ」が聞きなしの代表例)と口腔内が赤いことからの連想だ。同時に、この熟語は杜鵑がツツジ属の花々に転用されるようになった由来も暗示している。ツツジ属花弁の代表的な色合いである白地に鮮紅色の取り合わせが吐血の飛沫のイメージと重なるからである。

さて、細葉杜鵑、又は志佳陽杜鵑の和名は何であろうか?これを探すのには随分苦労した。台湾サイトで提供されている学名を日本語エンジンで検索すると行き当たった。「イサオツツジ」がその回答なのだが、意味不明。参考までに二つの学名を並べるが、両者同種である:

*細葉杜鵑:Rhododendron noriakianumi Suzuki
*志佳陽杜鵑:Rhododendron sikayodaisanense Masamune

複数の台湾植物学学徒が出て来る。日本語サイトでの検索は難しいので台湾資料『臺灣近代植物學的發展』に依った。筆者の推定では以下の通りである:「のりあき」=福山伯明;「すずき」=鈴木時夫(学名中にTのイニシャル有り);「まさむね」=正宗嚴敬。結論として日本人の名前と思しき「イサオ」の出所不明。尚、「シカヨウ大山」は即ち志佳陽大山、このカテゴリーの最初の投稿で説明済みである。(終り)

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2021年05月22日

閂山−6

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【写真説明】この山行で登頂以外で期待していたことは730林道25`地点の林務局工寮(作業場兼宿泊所)である。どういう経緯で興味を持ったのかは忘れてしまったが、前身が日本時代の駐在所ではと睨んでいたかもしれない。筆者の閂山登頂が2014年5月、当時工寮の中にテントを張ったという記憶がないので、まだまだ断熱シートの上に寝袋で眠れるぐらいには荒廃が激しくはなかったと思う。今現在は撤去されたという噂も耳にしたので、ネットで公開されている今年に入ってからの山行記録を閲覧してみると、工寮そのものはまだ建っているが、最早宿泊には耐えられずにハイカーはその約500b手前の林道脇に露営するのが一般的のようだ。そのような山行記録は必ずこの工寮の写真を恰も歴史建築並みの扱いで掲載している。筆者も同意するものである。730林道の荒廃そのものが自然回帰への過程である。(続く)
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2021年05月08日

閂山−5

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【写真説明】左写真は出発から丁度2時間後に撮影、ここから最後の登りに掛かり約20分後に登頂している。中央写真は頂上の点景。右写真は陸測二等三角点。登頂した時は既に霧中にあったと云う記憶だったのだが、写真を繰ってみるとまだ僅かに眺望は残っていたのが判る。(続く)
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2021年04月24日

閂山−4

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【写真説明】駐車地点から閂山登山口までの約13`区間の歩行標準時間が4時間強、落差は約500b、その間を休憩を含め5時間半程度掛けた。その登山口(標高2,835b)に先ず露営の準備をして約2時間弱を要する閂山頂上を目指した。但し、下山後直ぐに撤収し25`工寮まで夜道を辿っている。その理由はもう思い出せない。730林道は登山口近くになると茅に覆われてしまう。この状態は登山道も暫くは同じだが、出発してから15分後には台湾高山特有の玉山箭竹の草原に切り替わり(左写真)、最初の池塘、同時に気象ステーションに出食わす。その後は緩やかで登り降りを繰り返し(中央写真)、出発から1時間15分後に頂上稜線が見えて来る(右写真左奥山塊)。天気さえ良ければ素晴らしい山行が約束されていたのはここに掲載した写真で自明なのだが、雨に降られはしなかったのは幸運とは言え、上述した緩やかな登り降りは実に退屈で苦しく印象の乏しい攻頂と相成った。(続く)
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2021年04月10日

閂山−3

【写真説明】実質的な中央山脈北二段の登山口となる730林道約12`地点から閂山登山口までの約13`の間の古林道美を当時撮影した中からランダムに選び時系列順に9枚並べた。林道というビジネス目的の人工物が自然に回帰していく様が感じ取られる。(続く)
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2021年03月27日

閂山−2

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写真説明】既に紹介したように730林道の全長は28`、手元の地図帳に依ると自動車が入り込めるのは11.7`地点まで、その先凡そ12`地点に木製の柵(同地図帳に「柵欄」の標記有り)が完全に徒歩のみの進入を命じている。閂山への登山口が23.2`地点なので、僅かに10`強歩けば言い訳だ。前日から雨が降っていたので、11.7`地点に至るまでの後半部分は四駆でもタイヤがスリップし悪戦苦闘した。当時の山行の中でも印象的な一段となった。右写真は駐車地点であり、撮影した写真の時間データを見ると、11.7`地点まで車で到達した模様だ。(続く)
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2021年03月13日

閂山−1

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【写真説明】左写真は730林道の実質的な起点である清泉橋。同写真左下に「九人坐」の文字と携帯電話番号があるが、登山客目当ての広告である。台湾では「接駁車」と呼んでいるが、要は白タクである。この林道は悪路であることが示唆されているのだが、実際酷いものだった。この橋より1`程入り込むと、既に廃棄された環山検査哨(林務局検問所)があり、一泊目の露営地とした。中央写真は検査哨全景、正式な林道起点。右写真は検査哨内部。

閂山へのアクセス口である730林道は台7甲線(旧省道7号甲線)(中部横貫公路宜蘭支線)沿いの環山部落南側に起点がありそこから東、中央山脈方面に延びている。同部落は台中市和平区平等里に属する。同区は台中市最大面積の区であるが同時に人口最小の区でもある。タイヤル族居住地でもある。平等里は北から思源、武陵、環山を主要地域として構成される。思源の宜蘭県側は思源(ピアナン)埡口と呼ばれる中央山脈と雪山山脈の鞍部である。南湖大山、中央尖山に代表される中央山脈北一段への登山口として著名だ。武陵は国軍退除役官兵輔導委員会の公有事業である三大高山農場の一つ、武陵農場で名高い。同農場は同時に雪山山脈の核心部、「聖稜線」への登山口でもある。環山部落は、文字通り四面を山岳に囲まれているから付けられた地名である。タイヤル語のローマ字表記はSqoyaw。旧名は志佳陽(シカヨウ)社。同部落をベースにして雪山山脈の百岳一座、志佳陽大山への登山は日帰り可能だ。実は、閂山登攀を試みる以前に志佳陽山に登攀する機会があった。単攻には成功したが真っ暗闇の中の帰還となり、しかも翌日は屏風山への登攀が控えていたので、環山部落内を散策する機会無し。これは閂山登攀時も同じ、下山後に足を伸ばす時間無し。詰り、環山部落がどの様な成りをしていたかについては極めて印象に乏しい。残念である。(続く)


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2021年02月27日

俯瞰図:閂山

[←俯瞰図はココをクリック]

閂山に実際登攀した後も、この百岳の一座の位置を上手くイメージ出来ずにいた。一体何処の山域に属するのか?と謂った素朴な疑問だ。実際はそれより早くに畢祿山に登攀した際、その頂上で撮影した写真の中に閂山が写り込んでいるのをかなり後になり発見した。中文版ウィキペディアの閂山の項は以下の説明が附されている:中央山脈北二段は中央尖山以南、畢祿山に至る中央山脈縦走路であり、甘薯峰、無明山、鈴鳴山、閂山の四座が含まれる。北二段の登山道は峻険だが、閂山と鈴鳴山は連続して730林道からアクセス出来る。今回掲載した俯瞰図は北二段を東側から俯瞰したイメージである。とは言え、このカテゴリーを書き起こすに当たり、さて閂山はどのような山容であったのか、全く思い起こせず、当時撮影した写真を見返しても記憶が鮮やかに蘇ると云うこともない。なだらかな長い頂上稜線をいただく平凡な山容を呈する山である。

さて、この山名である。2014年当時何故この百岳に登ってみようと考えたのか思い出せないのだが、山名に魅せられたことは大いに想像が付く。日本時代、「かんぬき・やま」とよんでいたのか?「サン・サン」と呼んでいたのか?は判らないが、当然前者が好ましいと誰もが思う。台湾のネット上ではその由来を不明としている向きが多いのだが、「クヌギ」の樹と「閂」を関連付けた由来を紹介した記事も多い。クヌギは漢字一字なら、「櫟、椚、橡、栩、椡」等があるのだが、「閂」は「椚」の転化ではないか?と謂う説明である。筆者の手元にある日本時代の地形図帳では、その標記は、何と木偏に閂、恐らく存在しない漢字である。誤植かどうかは判らないが、戦後閂を使い始めたのではないか?閂山一帯クヌギは良く分布しているそうである。

林務局管理下の林道は公式サイトを見ると台湾全土で80強線あるのだが、730林道はその中に入っていない。その理由は既に廃棄林道になっているからだろう。そもそもこの数字自体その由来の予想が難しい。自動車道幹線である台7線(旧省道7号線)からアクセスするからではないか?という台湾ネット上の説明に往き当たったが、成る程と思った。既に紹介済みの畢祿山への登山道に利用されている820林道も同様に台8線に繋がる。730林道の全長は28`、閂山と鈴鳴山のアクセスに利用されている廃棄林道であるが、古道ならぬ古林道の様相を呈しており、旧林道沿いに残る縁石等には厚く苔が纏わり付き、廃墟の美を醸し出している。(終り)
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2021年02月13日

屏風山−5

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【写真説明】某月某日のメモに曰く「稜線に出るとそこは三叉路になっており、三角点へは左折、少しだけ竹薮を潜ると登山道脇に、テント二張程度は可能な清潔な露営地あり。「屏風山頂上は展望が利かず」と聴いて来たが、三角点が埋設された地点はその通り、但し、三角点に至る稜線は気持ちの良い笹原が広がり、又、眺望は絶品!屏風山遠望は、頂上まで樹林帯が競り上がっているように見えるが、実際は片側は断崖、その反対側はゆるやかな笹原という典型的な台湾山岳の稜線を形成している。稜線上には幾つか頂上候補があり、一番奥にある瘤が最も明瞭に独立しているので、そこまで上り下りを強いられるのかと思うと気分が重くなるが、実際は、最初の鞍部と瘤を越え、次に現れる不明瞭な丘状の盛り上がりが頂上だった。」左写真は、頂上稜線に出て屏風山山頂に向かい北進するハイカーの背中を襲う様にそそり立つ奇莱主山北峰(3,607b、百岳16号)。中央写真は山頂を目指すハイカーの目前に立ち現れる中央山脈北一段(同写真右側から、南湖大山=3,742b、8号と中央尖山=3,705b、10号)と北二段(無明山=3,451b、31号)の核心部。右写真は、東側展望、奇莱東稜と呼ばれるタロコ渓谷方面である。同写真中央部付近に写る帽子状の山容を呈するのは佐久間山(2,809b)、第5代台湾総督佐久間左馬太に因む。その右側の高峰は立霧主山(3,070b、90号)。下掲は屏風山山頂、陸測三等三角点。(終り)
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2021年01月30日

屏風山−4

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【写真説明】某月某日のメモに曰く「金鉱を過ぎると四本の沢を渡るが、一本目の沢両側の崩壊は激しく危険、四本目の沢が過酷な急登の始まり、頂上稜線までの登山道は殆どロープを張り巡らされ急登を強いらされる。稜線直下は原生樹林の中の急登であるが、その下はドン突きに頂上稜線から岩場が迫り出た狭い長いガレ場になっており、全登山道の中で最も危険、台風等大雨後にこの場所を登るのは落石の危険甚大で自殺行為。」上掲左写真は松針営地と金鉱跡迄の間に広がる松林(二葉か五葉かは忘れた)。二枚目写真は金鉱跡附近から望める頂上稜線直下のガレ場、三枚目写真は最後の沢、ここから頂上稜線まで約800bの落差のある直登に転じる。下掲左写真はその途中目撃した警告板、標高等を示す標示板等無く、一体どの位の位置にあるのか?皆目見当付かず苦しい登山を強いられた。二枚目写真は台湾鉄杉の原生林。三枚目写真は上掲二枚目写真のガレ場の現場。右写真は頂上稜線への最期の登り。(続く)
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2021年01月16日

屏風山−3

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【写真説明】屏風山への登山以外に期待していたのは、通称合歓金礦(鉱)跡を見ることだった。当時は日本時代の開鑿だと漠然と考えていたからだ。この記事を起こすに当たり改めてネットを渉猟してみると、当該情報は筆者の想像より極端に少なくしかもそれらは同じ新聞(聯合報)の記事に依っている。屏風山も含め台湾の金採掘の歴史を概観したものは河内文化社のオンライン台湾百岳(「線上臺灣百岳全集」)が秀逸だと思う。いずれにしても、最近の開鑿は1975年に屏風山合歓金礦公司が採掘権取得、1979年に採掘開始、その後日本の会社も協力した模様だが、三年以内に採掘を放棄したようだ。以上のような採掘履歴なので登山道上で目撃した金鉱残骸は上掲の左・右の写真のみ。同列中央写真は、下掲左写真の屏風山登山道のマイルストーンの一つ、鉄線橋下の立霧渓、同写真上側が上流、嘗ての金鉱方面である。鉄線橋は登山道の最低部、2,000bを割り込んでおり登山口との標高差はマイナス約500bもある。登山口から急坂を下り立霧渓支流底に至った時はその下りに失望したものだが、更に大下りを経ていたことには気付かなかった。下掲中央写真はベースキャンプ、通称松針営地、文字通り松林が美しい。右写真はその細い水場。(続く)
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2021年01月02日

屏風山−2

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【写真説明】明けましておめでとうございます。今年も引き続き本ブログをお引き立てお願い申し上げます。今回の投稿記事より、先の「俯瞰図」の中の投稿記事の某月某日のメモを繰り返しながら、屏風山の登頂を簡便に追い掛けることにする。

「大禹嶺表示板手前の登山口から渓底までは急下降⇒渓底から登り始め一本の沢を渡った後崩壊した斜面を急登、踊り場まで登り切ると、後は鉄線橋に至るまで緩やかな下り、途中一本乾季の間は枯れそうな沢を渡る、又、金鉱に送電していた名残りの電柱に遭遇、最後は鉄線橋に向かい下降、鉄線橋を渡り切ると豊富な水量を持つ水場を備えた露営地、暫く急登した後は、松林の平坦地が露営地まで続く。露営地から暫く坂を登るとやがて平坦地に移り金鉱まで続く。鉄線橋上部から金鉱までの登山道は松を主体にした美しい樹相を呈している。」左写真は登山口に立てられた屏風山登山に対する注意警告板。中央写真は登山口からいきなり急降下した先の着地点、タッキリ渓支流、その間の落差は250b程度。そのタッキリ渓を渡り切ってしますと、急登に転じるのが右写真。「タッキリ」には「塔次基里」等の漢音訳を充てているが、日本語漢音訳の「立霧」が最も優雅だ。(続く)
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2020年12月19日

屏風山−1

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【写真説明】前回投稿に付したダイヤグラムだけで実際の屏風山の山容をイメージするのは難しい。屏風のように立ちはだかる山塊なのでそう呼ばれているのだが、西側、即ち合歓山側から眺望すると頂上稜線は平たく、その稜線上まで樹林帯に占められているので、山容に特色が無く撮影の興味を削がれてしまう。南隣りの奇莱連峰と対照的に実に平凡な山容である。この為、これまで合歓山群峰方面に出掛けた際に撮影した写真の中に「偶々」屏風山が写り込んだものが無いか?探してみたが目ぼしいものが無い。辛うじて探し当てたのは、筆者の古道ブログ「合歓山越嶺古道−4」に掲載した右写真と、同日(2010年5月)撮影した上掲左側の併せて二枚のみ。これら二枚の主役は奇莱主山北峰の文字通り奇怪な頂上山塊であり、しかもかなり東側からの眺望なので、奇莱北峰が屏風山の左側に見えている。屏風状の山容を呈しているのは繰り返しになるが、西側からの眺望である。そこで最近(2020年12月)、三回目の北合歓山への登攀の際、屏風山の撮影を意識したのだが、生憎雲が多く上手く撮れなかった。中央・右写真とも北合歓山西斜面で、中央写真の撮影地点の方が海抜が高い。序でに合歓山群峰まで写し込んだパノラマ写真も掲載したが、屏風山右側に起立しているはずの奇莱北峰は雲の中。。。(続く)
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2020年12月05日

俯瞰図:屏風山

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台湾百岳の中で、屏風山は「一度登ればもう二度と登りたくない」一座の代名詞である。それを2012年10月、定番通り三日間掛けて登り切った。それ程昔の話でも無いと思い込んでいたが、もう八年も経ってしまった。南大武山の紹介記事の中で述べたように、台湾にて登山を再開した時、登山中にメモを取ることはしなくなった。それでも屏風山の場合、下山後暫くしてからだったか、或いは数年後だったか、登山の印象をメモしている。それらのメモを数回の投稿に分けて小出しに紹介する方法もあろうが、屏風山の最初の紹介である本投稿の追記で一気に掲載することにした。

それにしてでもである。この項の最下段に標準的と思われる時間軸を抜き書きしておいたが、頂上往復の総時間が19時間も掛かるのである。休憩、食事の時間を足し込めば優に20時間を超える山行なのだが、何故か、伝統的にと思われる位にこの屏風山は単攻の対象とされて来た。この場合の「単」とは一日のことだが、12時間に非ず、24時間である。これは今でも筆者には解せない。

屏風山は奇莱主山主稜から北側稜線続き、合歓山群峰と対峙し、文字通り屏風の如く立ちはだかる。下に掲載した筆者が辿ったコースが屏風山への唯一の登山ルートと思い込んでいたが、このカテゴリーを書き起こすに当たりネットを渉猟していたら、実は2コース、新旧登山道があることが判った。これらは鉄線橋を過ぎた後に露営地があるが、この露営地附近に分岐点があり、旧コースは頂上に繫がる尾根に直接取り付き、他方新コースは、金鉱跡を経由し南側の尾根に取り付き、最後は頂上稜線南側に往き当たる。筆者が往復したのは新コースであるが、新旧両コースを辿る(所謂O線)向きもある。新コースが遥かに長いのだが、何故わざわざ長いコースを開鑿したのかはその内誰かに聞いてみる積りだ。

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2020年11月21日

北大武山−16:南大武山−5

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【写真説明】ジェラシックパークを過ぎてクワルス渓迄降り立つ廃棄林道はびっしりと草に覆われ、嘗て林道であったことを想像するのは難しい。そのような景観を三枚選んでみた。写真左から右へ、高度が下がる。右写真の右側に白い部分が僅かに写っているがクワルス渓底の水である。詰り、クワルス渓左岸沿いの林道部になる。この山行を終えた時は、再度挑戦することも無かろうと諦めていたのだが、投稿記事を書きながら、何故か沸々と山頂迄辿りたいと云う思いが湧いて来た。(終り)
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2020年11月07日

北大武山−15:南大武山−4

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【写真説明】日本で山登りをしていた頃は、所謂山行記録をまめに取っていたものだが、デジカメの出現で手書きのメモは全く徒労でしかなくなった。佳興山荘を後にし下山を開始しクワルス渓岸の駐車地に戻る迄の時間軸は、撮影した時間データに依ると下掲の通りである。とは言いながら、このように改めて時間データを並べてみたのは筆者自身初めてのことである。その理由は、当時の僅か二日間の撤退行の間、始終雨に濡れ蘇ぼれ、脳味噌迄朦朧としたような気で只只管(ひたすら)歩き続けるだけの状況だったので、一度記憶と実際撮影したイメージの整合を取っておこうと思い立ったからだ。前述の朦朧とした気分は、実は最初の投稿記事の中で書いた体力の急激な衰えの故である。佳興山荘前後の廃棄林道の状態は明瞭な違いがある。前段は林道自体が高低様々な草木に覆われ嘗ては林道であったことが想像し辛い。後段は前回投稿で紹介した通りである。詰り、廃棄林道を取り巻く植相が大きく違うと云うことである。
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2020年10月24日

北大武山−14:南大武山−3

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【写真説明】佳興山荘での一夜は激しい雨音の中だった。南大武山頂上付近の岩場のことは聞いていたので、それらが全て雨に濡れ滑り易くなっている岩盤表面をイメージしながら、即座に下山を決めた。只、山荘からそのまま下山するのも勿体無い気がし、旧林道兼登山道を更に3`程辿った地点に登山口がある吐蛇流山迄足を延ばすことにした。これは前日、登山口から6`地点に登山口のあるはずの文丁山(標高877b)を逸してしまったこともその理由である。左写真は山荘を出発してから半時間程の場所からクワルス渓の対岸の集落、屏東県泰武郷泰武村(クワルス社)、旧集落は同写真の右方向にある。これら新旧二つの集落の間に、トクブン社(現在の集落の在処判らず)とカピアン(カピアガン)社(現在の同県同郷佳平村)が同写真下側に見て取れる、北大武山登山口へ向かう産業道路沿いにある。中央写真は吐蛇流山への道標、右写真はその山頂に埋定された陸測三等三角点、三角点の保護石まで完全に残っている。
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2020年10月10日

北大武山−13:南大武山−2

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【写真説明】佳興山荘出入口から真っ直ぐに登山道とは別方向に竹藪の中を辿ると、差し渡し30bはあろうかと思われる池塘がある。池塘という表現は多分正しく無い。冬場で水が枯れているが、夏場は池状になっているはずだ。左写真は池の入口を佳興山荘を背にして臨んだ。中央写真は池全体、一条のミニ川が流れ込み池が形成されている様子が判る。右写真はそのミニ川の出水口。平坦地に加え、この水場の存在故、佳興山荘の地として選ばれたはずだ。地元民、作業員、登山者が長らくこの水の恩恵を被って来たのであるが、打ち捨てられた地上の生活物資が池の底から覗いている。残念ではあるが、一度大掃除でもすれば、誠に麗しい深山の清涼剤である。(続く)
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2020年09月26日

北大武山−12:南大武山

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【写真説明】南大武山(標高2,841b)登頂後に北大武山カテゴリーとして投稿記事を足し込む予定にしていた。既にこのブログの中で何回か言及したのだが、2016年年末当時の筆者の体力を考慮し、通常三日間とされる山行を四日間組んで臨んだのだが、大雨の為二日で下山した。当時撮影した写真を見ると、駐車した場所、そこからクワルス渓(現代台湾表記「瓦魯斯渓」)を渡河、廃棄された南大武林道を探し出すのに一苦労、一日目の宿泊地である佳興山荘(林務局工寮)(登山口から11`地点、標高1,300b)に辿り着くまでの写真が一枚も残っていない。又、撮影した全ての写真が濡れそぼったカメラを即座に連想させる。登山道延長は約19`(駐車・渡河地点で2`程度はプラスする必要あるかもしれない)、落差は2,600b、大部分は既に朽ち果てた林道を辿る。惨めな山行の果てに辿り着いたのは、登山道が林道を離れる地点(15`)近くの吐蛇流山三角点、登山口から13.5`地点である。この時の強烈な印象は、一つは、嘗ては作業車が往き交っていたであろう林道とその沿線がすっかり南台湾のジャングルに呑み込まれたおどろおどろしい景観、二つ目は、山荘とは名ばかりの工寮の荒れ振り、三つ目は、筆者自身の急激な体力の衰えを認識する羽目になったことである。標高260bのクワルス渓底の登山口周辺の写真が皆無なので、今回の南大武山紹介記事は、山行第一夜の露営地と云う表現が似合う佳興山荘の紹介からスタートする。「佳興」とは現在の屏東県泰武郷佳興村、日本時代はプンティ社と呼ばれていたパイワン族の集落である。現在の集落はクワルス渓右岸の高台に移遷しているが、旧部落は、同渓の左岸側、正に南大武山の登山道途中に位置しており、クワルス渓を挟み、お互いに対峙する位置関係にある。以上は迂闊にも下山後判ったことである。嘗て、佳興村を訪ねた時、旧社の在処を尋ねたのだが、答えて貰えなかったのだ。(続く)

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2020年09月12日

北大武山−11:西大武山

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【写真説明】以前の投稿で紹介したようにこの山の山頂迄足を延ばしたのは2004年2月である。確かそれ以前に一緒に雪山に登った時のメンバーの一人が声を掛けてくれ、当日この殆ど無名の山のみを目指した。旧登山口から檜谷山荘へのルートの途中で西側へ辿る分岐点があり、布条等で目印がしてある。今回その分岐点に往き当たった時は懐かしい気もしたが、再度辿ってみようと云う気は全く起こらず。当時の印象が一切残っておらず、先ず、その分岐点から山頂迄の距離をイメージ出来ないことが一番の不安だった。左写真は2020年の山行時に撮影した分岐点の表示、中央写真は中途の景観、右写真は西大武山山頂の台湾総督府殖産局森林課埋定の三角点、標高1,894b。下掲の写真は「北大武山−9」で紹介した観景台、標高凡そ2,150bから北側、即ち登山口方向の眺望、手前の稜線の一番左側ピークを西大武山と呼んでいるようだが、同じ稜線上の別のピークも筆者手元の市販地図には同じ表記がある。その後方稜線の左側ピークは日湯真山(ピュマ山、標高1,702b)、右端ピークが鱈葉根山(タラバコン山、同1,556b)、いずれもパイワン族旧部落名である。(続く)
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2020年08月29日

北大武山−10

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【写真説明】檜谷山荘の前身は日本時代迄遡れると謂う知見はあったが、具体的にその前身が何であったか?確かな由来は知らなかった。詳細は本文を参照にして欲しい。その日本時代の名残りと思われる物を何箇所かここで紹介しておく。左写真は山荘の玄関口から最も奥後方の石垣。中央写真は山荘を支える基壇部の石積み。右写真は山荘より低い場所にある様々な石積み、これらの中に本当に優に七十年を越えた日本時代の遺物があるかどうか?保証の限りでは無いのだが。
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2020年08月15日

北大武山−9

【写真説明】旧登山口から3.5`地点にある観景台からの眺望を三枚掲載する。ここから檜谷山荘迄の距離は約400b、トラック一周なので、大概のハイカーは先ず山荘迄至り荷を降し、空身で戻って来て、夕陽を浴びながら写真撮影に励むのだ。ただこの400b、山荘迄平坦な登山道を辿るものとばかり間違って記憶していたので、アップダウンがあり大いに不満だった。▲部分をクリックして欲しい:

観景台から東側、檜谷山荘方向、即ち北大武山稜線、写真に写る最高点は大武祠が鎮座する地点、三角点が埋定されているのは稜線左端。17時18分撮影。
観景台から南東側、南大武山方面:南大武山(標高2,841b)は百岳ではないが、南一段中の名峰、筆者長年の憧れの山、一度挑戦し大雨の為、撤退したことがある。恐らくもう二度と機会は無いかもしれない。17時42分撮影。
上記二枚は夕方撮影したものだが、この一枚は明朝08時30分の撮影である。二枚目と同方向だが、南大武山の尖峰が明瞭。(続く)

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2020年08月01日

北大武山−8

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【写真説明】旧登山口から暫くの登山道の印象は些かでも残留しているかと予想していたが全くダメだった。登山口からいきなり山深く入り込んでいくものとばかり思い込んでいたが、実際は断崖状の地形に登山道が付いており、この部分もモーラコット台風以降開削し直されたのではないかと勘違いしてしまう始末。登山道は以前のままコースを変えていないことを古い里程標が連続しているのを確認してから気付いた次第。但し、この部分には諸所左写真のように滑落防止の処置が施されていたのは明らかに以前は無かったものだ。中央写真は登山道中唯一記憶に残っていた森氏杜鵑の回廊、但し以前は同写真に写る階段状の渡しは無かったはずで、これは景観を阻害していると思った。右写真は、檜谷山荘までの登山道の最後の急坂を登り切った場所にある、高雄市街地までを見通せる観景台があるが、その直下に開花していた台湾一葉蘭。この観景台からの豪華な眺望は次回投稿で掲載する。序でに前回リストアップした「休憩所-1」(旧登山口から1.75`)「休憩所-2」(同2.5`)のパノラマ写真を添付する。(続く)
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2020年07月18日

北大武山−7

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【写真説明】左写真は旧登山口手前の旧駐車場後、新旧登山口を繋ぐ最後の部分で嘗ての産業道路をそのまま歩く。旧登山口広場にある林務局の看板(中央写真)は昔のママの様である。右写真は新に設置されたステーションで初めてお目に掛かった。ここに詰めるのは相当に体力が必要と同情しきり。
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2020年07月04日

北大武山−6

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【写真説明】左写真は2009年モーラコット台風(「八八水災」)後に出来た駐車場、即北大武山新登山口である。登山口は同写真左側、駐車場上部にある。同写真後方に写る稜線最低部が旧来の登山口であり、その後の稜線に登山道が開鑿されている。中央写真はその正真正銘の新登山口。右写真は嘗て本来の登山口まで延びていた産業道路の崩壊した様子。尚、本カテゴリーの再開を飾るべく、以下の本文冒頭に、昨年末iPhone 6で筆者のアパートから撮影したパノラマ写真を埋め込んでおいたので閲覧願いたい。同写真左奥端、井歩山(阿猴富士、2,066b)から始まり、霧頭山、北大武山、南大武山を経て、右端、恒春半島最高峰の里龍山(1,058b)までが写り込んでいる。傑作と言うより、偶々の絶妙のタイミングでベランダに出たからに過ぎない。
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2020年06月20日

能高山−9

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【写真説明】登頂した時はもう二度と来るまいと思った。下山後暫くして次はせめて南峰までは足を延ばしたいと思うようになった。陸測三等三角点。右写真は南峰方面への降り口。単攻に拘らずに、この降り口の直ぐ下になるはずの露営地、台湾池で一泊、再び頂上に戻り下山するオプションを選んだ方が良かったとこれも下山後暫くして思った。(終り)
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