2022年09月24日
桃山−2
【写真説明】上段左写真は登山ベース武稜山荘から見上げる桃山、登山口から目標点が見えているのが大いなる特異性だ。中央写真は古い指導標、右写真は台湾二葉松街路とも呼べる典型的な防火道路。筆者が初めて出遭った台湾雪山山脈中の防火道路を縦版を使いもう少し紹介しておく。下段左写真は未だ正式には防火道路に入っていなのだが、これだけのものを見せられると驚いた。但し、直ぐに食傷する羽目になる。中央写真は防火道路進入地点、右写真は防火道路終点の光景。(続く)
2022年09月10日
桃山−1:桃山俯瞰図
▲[←俯瞰図はココをクリック]
聖稜線と武稜四秀を組み併せてみたが、やはり伝統的な手法通り百岳各々一座に対し一枚の俯瞰図を充てることにした。さもなくば各一座の特殊性を視覚化するのが難しいと云う単純な理由だ。筆者にとり桃山の特殊性を思い付くままに列記して今回の稿を終わらせることにしたい。
1) 武稜四秀四座の標準日程は山中二泊三日だと思う。これを一泊で切り詰めて完登してしまう個人、パーティーもあるようだ。詰まり一回の山行で完結して仕舞える雪山山脈のモデルコースである。筆者は四座完登に三回の山行と三年八カ月を要した。特別な理由は無い。運が悪かっただけと言えようか。最初は2011年2月、武稜山荘から桃山(+喀拉業山)迄の往復行である。単純な往復行にした理由は思い出せない。二回目は翌年2012年1月、池有山と品田山を目指したが、積雪の為品田山登攀は断念した。断念したのが正しかったと理解したのは三回目の挑戦、2014年10月のO線コースを辿った時だ。いずれにせよ、筆者自身の武稜四秀に対する憶いは、極めて標準コースであるにも拘わらず以上のように非常に長い時間を掛けたと云う事だ。
2) 初めてプロの登山ガイド・ポーターを雇った山行に相成り、この後台湾百岳のみならず主要登山はお世話になることになる。当時53歳ぐらいか、まだまだ背負えていたと思うが、その後五年も経たない内にガイドは必須と自覚せざるを得ない体力状況が現出した。
3) 桃山登山以前に二回、雪山主峰定番コースは体験していた。それらを含めてこれまで雪山山脈山系登山の中で最も恵まれた天候の中の山行になった。それを証明するのが、当時デジカメで撮影した写真群である。当時はかなり低級なデジカメを持参、撮影していたはずだが、解像度の低い割には非常に良く撮れていると思われる理由は、当時のキャノンの技術力に負う所が大きいと今でも思う。今後そのような写真を中心に投稿を纏めたいと思う。
4) 当時はまだ中国からのツアーは大流行だったはずだ。武稜農場にも連日多くの中国人観光客の為に仕立てられた観光バスで賑わっていたはずだ。正確に場所は覚えていないが、既に防火道終点は大いに過ぎていたと思う。明らかに中国人観光客と判る出で立ち、背広の正装からネクタイを外しただけ、革靴を履いたままでそこまで登って来ている男性一人を目撃した。もし彼が頂上を目指していたのであれば、行き着いたであろうし、そういう中国人農民(と私が推測した)の逞しさが滲みだしているのだ。当時筆者は中国で職を得ていた。
5) 「防火道路」―日本では防火帯と言うはずだ。この後の雪山山脈山系登山で思い知らされるのだが、筆者自身過去の経験が無く、かくも美しき且つ無機質の防火道路、即ち登山道を辿る精神、肉体双方の大いなる消耗。。。今回のダイヤグラムに防火道路の出入口の標高を入れ込んだのは、一種の大いなるカルチャーショックを受けたからだ。(続く)
聖稜線と武稜四秀を組み併せてみたが、やはり伝統的な手法通り百岳各々一座に対し一枚の俯瞰図を充てることにした。さもなくば各一座の特殊性を視覚化するのが難しいと云う単純な理由だ。筆者にとり桃山の特殊性を思い付くままに列記して今回の稿を終わらせることにしたい。
1) 武稜四秀四座の標準日程は山中二泊三日だと思う。これを一泊で切り詰めて完登してしまう個人、パーティーもあるようだ。詰まり一回の山行で完結して仕舞える雪山山脈のモデルコースである。筆者は四座完登に三回の山行と三年八カ月を要した。特別な理由は無い。運が悪かっただけと言えようか。最初は2011年2月、武稜山荘から桃山(+喀拉業山)迄の往復行である。単純な往復行にした理由は思い出せない。二回目は翌年2012年1月、池有山と品田山を目指したが、積雪の為品田山登攀は断念した。断念したのが正しかったと理解したのは三回目の挑戦、2014年10月のO線コースを辿った時だ。いずれにせよ、筆者自身の武稜四秀に対する憶いは、極めて標準コースであるにも拘わらず以上のように非常に長い時間を掛けたと云う事だ。
2) 初めてプロの登山ガイド・ポーターを雇った山行に相成り、この後台湾百岳のみならず主要登山はお世話になることになる。当時53歳ぐらいか、まだまだ背負えていたと思うが、その後五年も経たない内にガイドは必須と自覚せざるを得ない体力状況が現出した。
3) 桃山登山以前に二回、雪山主峰定番コースは体験していた。それらを含めてこれまで雪山山脈山系登山の中で最も恵まれた天候の中の山行になった。それを証明するのが、当時デジカメで撮影した写真群である。当時はかなり低級なデジカメを持参、撮影していたはずだが、解像度の低い割には非常に良く撮れていると思われる理由は、当時のキャノンの技術力に負う所が大きいと今でも思う。今後そのような写真を中心に投稿を纏めたいと思う。
4) 当時はまだ中国からのツアーは大流行だったはずだ。武稜農場にも連日多くの中国人観光客の為に仕立てられた観光バスで賑わっていたはずだ。正確に場所は覚えていないが、既に防火道終点は大いに過ぎていたと思う。明らかに中国人観光客と判る出で立ち、背広の正装からネクタイを外しただけ、革靴を履いたままでそこまで登って来ている男性一人を目撃した。もし彼が頂上を目指していたのであれば、行き着いたであろうし、そういう中国人農民(と私が推測した)の逞しさが滲みだしているのだ。当時筆者は中国で職を得ていた。
5) 「防火道路」―日本では防火帯と言うはずだ。この後の雪山山脈山系登山で思い知らされるのだが、筆者自身過去の経験が無く、かくも美しき且つ無機質の防火道路、即ち登山道を辿る精神、肉体双方の大いなる消耗。。。今回のダイヤグラムに防火道路の出入口の標高を入れ込んだのは、一種の大いなるカルチャーショックを受けたからだ。(続く)
2022年08月27日
俯瞰図:桃山
▲[←俯瞰図はココをクリック]
愈々、このブログのタイトルの「聖稜線」に入る。既にこのブログの記事の中でも聖稜線と云う単語の出所については紹介済みと理解している。聖稜線を含む雪山山脈の山岳の紹介を始めるに当たり、もう少し聖稜線に説明を加える。
台湾山岳協会の総幹事、沼井鉄太郎のパーティーは、昭和2年(1927年)、タイヤル族の聖山、大覇尖山(標高3,490b、百岳29号)に初登頂、翌年発表した小論文『關於攀登大覇尖山之考察與實行』(日本語タイトルの中文訳)の中に以下の下りがあり、爾来大覇尖山から次高山(現在の雪山主峰:同3,886b、百岳2号)までの稜線は台湾登山界で「聖稜線」の名で呼ばれるようになった:
「聖なる稜線、大霸尖山−次高山の真正のトラヴァース(縦走)、果たして何人がその栄誉を荷ひ、その真美を語り得るだらうか。」
さて、それは良い。筆者が苦労したのは、日本のサイトを渉猟しても、沼井のその小論文のタイトル、収録されている機関紙名、又、引用した下りの日本語原文、往き当らないことだ。大体、ウィキペディア日本語版には沼井鉄太郎そのものが存在しない。他方、台湾版には詳細な紹介が出ている。更に台湾では極めて著名な下りの日本語原文は、何と雪覇国家公園の日本語公式サイトの中にあった。いやはや日本人にとり台湾は遠くになりにけりである。
以上の様に聖稜線の本来のルートは大霸尖山と雪山主峰を結ぶ稜線だが、このブログでは広義の聖稜線として本来の稜線から派生している稜線上の山岳も含めることにしている。
筆者の雪山山脈の登攀歴もそう多くない。武稜四秀、聖稜線O線、大覇尖山、志佳陽大山、(番外編)大小剣山の順で紹介する予定だ。
今回の俯瞰図は雪山山脈の山岳の紹介の手始めとして沼井の聖稜線(大覇尖山-雪山=次高山)と最初の紹介となる武稜四秀(桃山-喀拉業山-池有山-品田山)の四座をシンプルに抱き合わせた。(終り)
愈々、このブログのタイトルの「聖稜線」に入る。既にこのブログの記事の中でも聖稜線と云う単語の出所については紹介済みと理解している。聖稜線を含む雪山山脈の山岳の紹介を始めるに当たり、もう少し聖稜線に説明を加える。
台湾山岳協会の総幹事、沼井鉄太郎のパーティーは、昭和2年(1927年)、タイヤル族の聖山、大覇尖山(標高3,490b、百岳29号)に初登頂、翌年発表した小論文『關於攀登大覇尖山之考察與實行』(日本語タイトルの中文訳)の中に以下の下りがあり、爾来大覇尖山から次高山(現在の雪山主峰:同3,886b、百岳2号)までの稜線は台湾登山界で「聖稜線」の名で呼ばれるようになった:
「聖なる稜線、大霸尖山−次高山の真正のトラヴァース(縦走)、果たして何人がその栄誉を荷ひ、その真美を語り得るだらうか。」
さて、それは良い。筆者が苦労したのは、日本のサイトを渉猟しても、沼井のその小論文のタイトル、収録されている機関紙名、又、引用した下りの日本語原文、往き当らないことだ。大体、ウィキペディア日本語版には沼井鉄太郎そのものが存在しない。他方、台湾版には詳細な紹介が出ている。更に台湾では極めて著名な下りの日本語原文は、何と雪覇国家公園の日本語公式サイトの中にあった。いやはや日本人にとり台湾は遠くになりにけりである。
以上の様に聖稜線の本来のルートは大霸尖山と雪山主峰を結ぶ稜線だが、このブログでは広義の聖稜線として本来の稜線から派生している稜線上の山岳も含めることにしている。
筆者の雪山山脈の登攀歴もそう多くない。武稜四秀、聖稜線O線、大覇尖山、志佳陽大山、(番外編)大小剣山の順で紹介する予定だ。
今回の俯瞰図は雪山山脈の山岳の紹介の手始めとして沼井の聖稜線(大覇尖山-雪山=次高山)と最初の紹介となる武稜四秀(桃山-喀拉業山-池有山-品田山)の四座をシンプルに抱き合わせた。(終り)
2022年08月13日
鈴鳴山−4
2022年07月30日
鈴鳴山−3
【写真説明】既にルートの概要は俯瞰図の方で説明済なので繰り返すことは遠慮したい。往きは25K工寮を出ると直ぐに人待山稜線に取り付く新ルート、帰りは730林道歩き主体の旧ルートに依った。人待山北峰までの落差300b程度を1時間15分費やしたのが一番堪えた登りだった。人待山主峰から鈴鳴山主脈の間も大きな下りであるが、崩壊部を乗り越すのでなく、南側斜面を巻きながら登り往き付く先が尖峰であるはずの稜線なのだが、ニイタカヤダケの草原に出合うので拍子抜けした感じがした。人待山から鈴鳴山頂上までの風景はこの草原故に実に美しいはずなのだが、筆者の頭の中のイメージ作りで終わってしまった。左写真は人待山北峰、中央写真が主峰頂上、右写真は人待山主峰から鈴鳴山頂上方面の風景。(続く)
2022年07月16日
鈴鳴山−2
2022年07月02日
鈴鳴山−1
2022年06月18日
俯瞰図:鈴鳴山
▲[←俯瞰図はココをクリック]
本来、南湖大山東峰の投稿を終えた後は、中央山脈から離れ愈々雪山山脈の台湾百岳の紹介に移る予定だった。ところが、東峰紹介の後に南峰の紹介が間に合うタイミングで南湖大山三回目の山行を敢行出来た。その時点で台湾百岳50座完登までに残り一座、5月第2週に唯一与し易しと想像していた中央山脈北二段に属する鈴鳴山への山行を組んだ。既に「閂山」で紹介済みのように、通常は閂山と鈴鳴山の百岳二座は、共に730林道沿いに登山口を持つ為、山中一泊、乃至は二泊で登れてしまう。短時間で百岳二座征服可能な手軽さが、北二段中では脇役的な山容を擁するこれら二座の最近の人気の理由だ。しかも、閂山へは登攀済みなので、鈴鳴山も又与し易しと考えていた理由である。
八年前(2014年5月)、閂山山行の入山前に露営地として利用した、730林道入口にあった林務局環山検査哨の建物は消えていた。しかし、その後の車道としての同林道のワイルドさはそのままであり、恐らく今現在自家用車で乗り入れるハイカーは皆無ではないかと思われた。730林道自体は既に廃棄されており修復する予算など無いと思うのだが、その状況は逆にこの林道走破に先鋭化された白タクサービスを大いに繁盛させていると思った。林道約11`地点の白タクサービス終点、即ち北二段登山口から閂山・鈴鳴山登山ベースの林道25`地点の工寮迄の歩行区間には大きな変化は見られなかった。
この通称25K工寮は、先に閂山に登った際に一泊したのだが、倒壊寸前の様相を呈していたと云うイメージがあった。最近のネット上の山行記録を見る限りでは、この古典的な林務局工寮は最早宿泊所としての機能は失われているものと考えられた。実際は、板敷きの床はまだまだしっかりしており雨、風、夜露は完璧に防げる。約23`地点の閂山登山口からこの工寮までの登山道沿いに多くの露営地が設営されているのを目撃した。詰まり、25K工寮のスペースが増え続ける登山客を収容するには余りにも小さ過ぎると云う事に合点が行った。
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本来、南湖大山東峰の投稿を終えた後は、中央山脈から離れ愈々雪山山脈の台湾百岳の紹介に移る予定だった。ところが、東峰紹介の後に南峰の紹介が間に合うタイミングで南湖大山三回目の山行を敢行出来た。その時点で台湾百岳50座完登までに残り一座、5月第2週に唯一与し易しと想像していた中央山脈北二段に属する鈴鳴山への山行を組んだ。既に「閂山」で紹介済みのように、通常は閂山と鈴鳴山の百岳二座は、共に730林道沿いに登山口を持つ為、山中一泊、乃至は二泊で登れてしまう。短時間で百岳二座征服可能な手軽さが、北二段中では脇役的な山容を擁するこれら二座の最近の人気の理由だ。しかも、閂山へは登攀済みなので、鈴鳴山も又与し易しと考えていた理由である。
八年前(2014年5月)、閂山山行の入山前に露営地として利用した、730林道入口にあった林務局環山検査哨の建物は消えていた。しかし、その後の車道としての同林道のワイルドさはそのままであり、恐らく今現在自家用車で乗り入れるハイカーは皆無ではないかと思われた。730林道自体は既に廃棄されており修復する予算など無いと思うのだが、その状況は逆にこの林道走破に先鋭化された白タクサービスを大いに繁盛させていると思った。林道約11`地点の白タクサービス終点、即ち北二段登山口から閂山・鈴鳴山登山ベースの林道25`地点の工寮迄の歩行区間には大きな変化は見られなかった。
この通称25K工寮は、先に閂山に登った際に一泊したのだが、倒壊寸前の様相を呈していたと云うイメージがあった。最近のネット上の山行記録を見る限りでは、この古典的な林務局工寮は最早宿泊所としての機能は失われているものと考えられた。実際は、板敷きの床はまだまだしっかりしており雨、風、夜露は完璧に防げる。約23`地点の閂山登山口からこの工寮までの登山道沿いに多くの露営地が設営されているのを目撃した。詰まり、25K工寮のスペースが増え続ける登山客を収容するには余りにも小さ過ぎると云う事に合点が行った。
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2022年06月04日
南湖大山南峰−5
【写真説明】2004年、2013年に続く今年の三回目の南湖大山行に対し期待していたことは二つある。一つは南峰と巴巴山の二座に登頂し、台湾百岳五十座完登を達成したかったこと。五十座完登は今年三月に雪山山脈の大・小剣山に登り済ませているはずだったが、悪天候の為に登頂を断念したからだ。詰まり後二座だったのだが、南峰迄は辿り着いたとは言えもう一座残ってしまった。二つ目は南湖杜鵑(ナンコシャクナゲ)の開花に出遭うこと。昨年は暖冬の影響で台湾シャクナゲの開花は一箇月以上前倒しになり、五月初日、慌てて玉山の登山基地塔塔加(タータカ)に車を走らせたのだが、完全に花期を逃してしまった。今年は逆に、三月中旬は南湖大山の開花には早過ぎるのではないかと云う不安があった。結果はナンコシャクナゲ、ニイタカシャクナゲ共々、標高大凡3,200b以下の地点では既に開花が始まっていた。左写真は今回の南湖大山行中、登山道脇で初めて目にしたシャクナゲ、ニイタカシャクナゲ、一昔前はモリシ(森氏)シャクナゲと呼んでいたかもしれない。標高は2,900b付近。中央写真は審馬陣山屋への三叉路付近に一株華麗なナンコシャクナゲの喬木(写真埋込)(低木)がありその中から開花したものを撮影した。標高は約3,200bで筆者の今回の山行の時期の開花最高点ではないかと思われた。ナンコシャクナゲはニイタカヤマシャクナゲに比し丈が低く喬木が常態かと考えていたが、中央写真より高度を上げた地点で撮影した右写真で見るように、ナンコシャクナゲも灌木化しているものがあるのを今回認識した次第。同写真に写るまだ未開花のシャクナゲ、手前に写る笹を除き写真の下から上まですべてナンコシャクナゲである。さて、南湖大山南峰カテゴリーを閉じるに当たり、筆者の二回目山行の記憶が大いに脱落していた部分を紹介しておく。二回目山行時もこの脱落、ギャップがあったことは既に具体的に前述したが、三回目山行時も相変わらず同様の記憶のギャップに苦笑いする始末。以下のコメントを分かり易くする為にこのダイヤグラムを埋め込んだので参考にして欲しい:
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2022年05月21日
2022年05月07日
南湖大山南峰−3
【写真説明】はっと息を飲むほどに美しい樹相が南湖大山主峰と南峰を結ぶ稜線を覆っていると云うのは錯覚だったのに気付いたのは下山後である。南湖池山屋跡地を後にして南峰への登山道が降り切って南峰への取り付きに転じるまでは、確かに樹林帯の中に登山道は拓かれているが、この稜線を形成しているのは大岩石群である。今回掲載した三枚の写真は樹林帯から間歇的に現れる岩石群を垣間見ているようなイメージになってしまったが、実際は、稜線を支配する連続する大岩石に迫られ看られているような塩梅だったはずだ。これは先に掲載した俯瞰図で明らかである。以上は復路で気付いたことで、稜線の恐らく豪快なはずの岩石群を撮影する機会を逸してしまった。筆者が撮影したかったのは各写真手前の樹木ではなく、その奥のおどろおどろしいばかりの岩石群だったのだが、悉く失敗した。そんな中、俯瞰図#33の「大岩盤」は取り分け印象的だったが、他にも同様な辺りを圧する岩盤なり岩石群はあったはずである。尚、「はっと息を飲むほどに美しい樹相」が立ち現れるのは特に今回紹介する区間に限られたことでは無いことを新たに再発見したのは、今回3回目の南湖大山行時である。1回目と2回目の間は約10年空いたが、2回目と3回目の間も同じくらいの時間が空き、各々失われたイメージが多いことを痛感した。2回目と3回目の記憶の空白については後述する予定だ。(続く)
2022年04月23日
2022年04月09日
南湖大山南峰−1
【写真説明】南湖山屋と南湖大山南峰との距離は約3.5`に過ぎない。加えて、その間の標高差は僅かに200b弱だ。最高点は、主峰方面と南峰方面の交差点で標高3,650b前後(右写真、2013年撮影、南峰方面は同写真右側に写るロープの渡された場所から、背後に写る鹿野忠雄特定の第10号カールをトラバースする。この交差点の指導標は「南湖大山−2」左写真)、主峰山頂南側直下となる。標準往復時間は5時間と聞かされていたが、当日の悪天候と筆者の体力の衰えの為に7時間弱を要した。三回目の南湖大山登山の5日間に渡る成果らしきものは、入山三日目のこの南峰との往復行だけだった。夜が明け明るくなって天候が落ち着く気配があれば出発を検討しようと云う申し合わせだったが、南湖山屋に寝泊りするハイカーの誰もが起きるのを躊躇する雨音が止む気配な無く、天候の回復期待値は下がるばかり。従来の筆者ならあっさり諦めるのだが、筆者の一箇月分の給料を越える賭けをした、恐らく最後の南湖大山群峰登攀の機会、このまま引き下がれるかどうか?山小屋の外では猛烈な風が轟音を奏でる中一晩悶々とした。ガイドの英断に感謝するしかない。とにかく出発し南峰の頂上を踏み無事戻って来たのだから。筆者の手持ちのデジカメは雨でぐしょぐしょ、重たく嵩張り、兎に角全天候下に於ける機能性を考慮するとスマホの独り勝ちだと今回もつくづく実感した。シャッターを押す機会が極端に制限された南峰行だったが、その中から選択し三回に渡る投稿で紹介することにした。今回は本年の実際の南峰行を紹介する前に、2013年行の際、南峰を明らかに意識して撮影した二枚(左・中央写真)をアップしスタートする。左写真は前回投稿記事の中に埋め込んだパノラマと同地点からの望遠。中央写真は、同じ角度から何枚も撮影しブログにもアップしたが、それらの中で南峰が最も大きく写り込んだもの。前回2013年時の南湖大山行時の快晴は奇跡としか言い様が無い。単に確率の問題、或いは運・不運の問題として容易に受け入れ難かった今回の悪天候、今でも妙な拘りから逃れられない。(続く)
2022年03月26日
俯瞰図:南湖大山南峰
▲[←俯瞰図はココをクリック]
前回の南湖大山東峰の紹介を以て、愈々このブログのタイトルである「聖稜線」に入る予定であったが、近々で南湖大山南峰まで辿る機会があった。筆者自身の最新の台湾百岳登攀記録である。この時期に自己の公的・私的双方のスケジュールに対し非常な無理を押してこの山行を入れ込んだのは、健康上の事由からの焦りである。四月に入ってしまうと、高山シャクナゲの開花を堪能出来るが、梅雨を控え台湾の天候は不安定になるので、どうしても出来るだけ早くの敢行が必要だと踏んだのだ。何故南湖大山を選んだからと言うと、未踏の南峰、巴巴山(百岳32号、3,448b)は、筆者の現在の体力で、余裕を持って南湖山屋をベースにして日帰り往復が可能と判断したからだ。
結果は散々だった。一つは天候である。入山から下山迄の丸五日間、雨に降られた。加えて猛烈な風である。この間、南湖大山群峰、中央尖山を代表する中央山脈北一段の山容を垣間見ることすら出来ない冷たい灰色の世界だった。唯一の救いは、シャクナゲの開花を目の当たり出来たことだ。シャクナゲに雨も風も関係無い。入山三日目、その雨と風を押して南峰のみの登攀を目指した。南峰の南稜線上の巴巴山迄足を延ばすことは端から放棄した。台湾人ガイドの勇断に非常に感謝するものである。もう一つは高山病の発症だ。筆者は高山病には耐性があると思い込んでいたのだが、この自信は今回の山行で大いにへし折られてしまった。僅かな登り勾配に身体が敏感に反応し猛烈に気分が悪くなる。持病の亢進、その薬の副作用、慢性的な鬱病に依る睡眠不足等々色々原因は思い浮かぶが、要は筆者の体力は高山登山は限界に近着きつつあるということだろう。
南湖大山南峰は奇怪な尖峰である。2013年山行時のパノラマ写真を埋め込んだ。南湖大山主峰から中央尖山へ至る稜線上の真ん中付近の突起がそれだ。台湾ハイカーの間では「沈黙の巨人」と云う呼称があることを下山後に知った。沈黙とは、無基点峰の為自ずから登山家を招くことはしないし、そうそう容易に登攀はさせないない山容を擁していると云う意味だろうか?南湖大山主峰と南峰の標高差は250b程あるので、大概のハイカーは主峰頂上、又はその登頂途中から南峰を俯瞰することになる。すると南峰を取り巻く巨石群とそこから起立する南峰の垂直感を感得するのは難しい。筆者自身は前回2013年の山行の際、南峰も散々撮影していたのだが、巨石群の存在と南峰の高度感、垂直感は全く理解していなかった。逆に言うと、今回現場に至ったにも拘わらず、天候のせいでこれら二つながら霧中(夢中)の出来事になってしまった。そういう悔悟を込めて今回の俯瞰図を起こした。南湖主峰と南峰の稜線は台中市(西側)と花蓮県(東側)の境界を定めているが、実際の登山道はこの境界より東側を辿り南峰に取り付く。(終り)
前回の南湖大山東峰の紹介を以て、愈々このブログのタイトルである「聖稜線」に入る予定であったが、近々で南湖大山南峰まで辿る機会があった。筆者自身の最新の台湾百岳登攀記録である。この時期に自己の公的・私的双方のスケジュールに対し非常な無理を押してこの山行を入れ込んだのは、健康上の事由からの焦りである。四月に入ってしまうと、高山シャクナゲの開花を堪能出来るが、梅雨を控え台湾の天候は不安定になるので、どうしても出来るだけ早くの敢行が必要だと踏んだのだ。何故南湖大山を選んだからと言うと、未踏の南峰、巴巴山(百岳32号、3,448b)は、筆者の現在の体力で、余裕を持って南湖山屋をベースにして日帰り往復が可能と判断したからだ。
結果は散々だった。一つは天候である。入山から下山迄の丸五日間、雨に降られた。加えて猛烈な風である。この間、南湖大山群峰、中央尖山を代表する中央山脈北一段の山容を垣間見ることすら出来ない冷たい灰色の世界だった。唯一の救いは、シャクナゲの開花を目の当たり出来たことだ。シャクナゲに雨も風も関係無い。入山三日目、その雨と風を押して南峰のみの登攀を目指した。南峰の南稜線上の巴巴山迄足を延ばすことは端から放棄した。台湾人ガイドの勇断に非常に感謝するものである。もう一つは高山病の発症だ。筆者は高山病には耐性があると思い込んでいたのだが、この自信は今回の山行で大いにへし折られてしまった。僅かな登り勾配に身体が敏感に反応し猛烈に気分が悪くなる。持病の亢進、その薬の副作用、慢性的な鬱病に依る睡眠不足等々色々原因は思い浮かぶが、要は筆者の体力は高山登山は限界に近着きつつあるということだろう。
南湖大山南峰は奇怪な尖峰である。2013年山行時のパノラマ写真を埋め込んだ。南湖大山主峰から中央尖山へ至る稜線上の真ん中付近の突起がそれだ。台湾ハイカーの間では「沈黙の巨人」と云う呼称があることを下山後に知った。沈黙とは、無基点峰の為自ずから登山家を招くことはしないし、そうそう容易に登攀はさせないない山容を擁していると云う意味だろうか?南湖大山主峰と南峰の標高差は250b程あるので、大概のハイカーは主峰頂上、又はその登頂途中から南峰を俯瞰することになる。すると南峰を取り巻く巨石群とそこから起立する南峰の垂直感を感得するのは難しい。筆者自身は前回2013年の山行の際、南峰も散々撮影していたのだが、巨石群の存在と南峰の高度感、垂直感は全く理解していなかった。逆に言うと、今回現場に至ったにも拘わらず、天候のせいでこれら二つながら霧中(夢中)の出来事になってしまった。そういう悔悟を込めて今回の俯瞰図を起こした。南湖主峰と南峰の稜線は台中市(西側)と花蓮県(東側)の境界を定めているが、実際の登山道はこの境界より東側を辿り南峰に取り付く。(終り)
2022年03月12日
南湖大山東峰
【写真説明】南湖大山主峰を降り、鹿野忠雄の特定した第1号と2号カールの背面(『臺灣南湖大山山彙に於ける氷蝕地形について』(田中薫・鹿野忠雄、「地理學評論」、昭和9年、より引用)、今は氷帽(アイスキャップ)と特定されている大氷原を横切り、東峰に至るまでの景観を、上段左写真から下段中央写真まで並べた。前回投稿でユニークな地形だとコメントしたが感得出来るのではないかと思う。下段右写真は、東峰から南西方向の眺望、中南峰(標高3,565b)越しに、南峰、巴巴山を経て中央尖山に至る景観。(終り)
2022年02月26日
俯瞰図:南湖大山東峰
▲[←俯瞰図はココをクリック]
東峰は眺める山と言うより登って楽しむ山だと云う気がする。見栄えが悪いと云う意味では無い。登山道が付いている南側斜面は広大な平面で、スレート状の薄い岩盤が敷き詰められ、陽が上るとキラキラ輝き、眼を射る。南湖大山連峰の中で地形的にユニークだ。頂上に三角測量標石は無い。頂上の高度感とスリル感は抜群だ。今回の俯瞰図はこの斜面に向かう様に回転させたのだが、実際の鋭角感と高度感からは程遠い。この峰は鹿野忠雄特定の2号カールを形成している。その形成は氷蝕運動に依るのは判るのだが、氷河地形として何と呼称されるのか?筆者は判らない。各種の氷河地形の呼称は、明らかに日本と台湾では異なる上に、日本のカタカナ表記は複数外国語訳表記が入り乱れているので、文献を読み比べてみても特定が煩わしい。前者は圏谷と氷斗、後者はホーンとホルンの関係がその一例だ。加えて、日本では更に和語での地形呼称がある。切戸とキレットの類(実はどちらも和語)だ。鎌尾根は学術用語か?筆者が勝手に思い巡らすに、東峰は氷蝕尖塔(ホーン)か、痩せ尾根(アレート、和語では鎌尾根か?)では?ホーンは英語だが、アレートはフランス語だそうだ。。。いづれにしても、次回の投稿で掲載する写真をご閲覧願いたい。(終り)
東峰は眺める山と言うより登って楽しむ山だと云う気がする。見栄えが悪いと云う意味では無い。登山道が付いている南側斜面は広大な平面で、スレート状の薄い岩盤が敷き詰められ、陽が上るとキラキラ輝き、眼を射る。南湖大山連峰の中で地形的にユニークだ。頂上に三角測量標石は無い。頂上の高度感とスリル感は抜群だ。今回の俯瞰図はこの斜面に向かう様に回転させたのだが、実際の鋭角感と高度感からは程遠い。この峰は鹿野忠雄特定の2号カールを形成している。その形成は氷蝕運動に依るのは判るのだが、氷河地形として何と呼称されるのか?筆者は判らない。各種の氷河地形の呼称は、明らかに日本と台湾では異なる上に、日本のカタカナ表記は複数外国語訳表記が入り乱れているので、文献を読み比べてみても特定が煩わしい。前者は圏谷と氷斗、後者はホーンとホルンの関係がその一例だ。加えて、日本では更に和語での地形呼称がある。切戸とキレットの類(実はどちらも和語)だ。鎌尾根は学術用語か?筆者が勝手に思い巡らすに、東峰は氷蝕尖塔(ホーン)か、痩せ尾根(アレート、和語では鎌尾根か?)では?ホーンは英語だが、アレートはフランス語だそうだ。。。いづれにしても、次回の投稿で掲載する写真をご閲覧願いたい。(終り)
2022年02月12日
南湖大山−3
【写真説明】南湖大山主峰山塊に取り付いてからの眺望は360度何も遮るものが無いので、その絶景は筆舌に尽くし難い。何処を切り取っても絵になる。。。と云うような書きようしか出来ないのが心苦しい。基本各投稿に対し基本写真三枚で紹介することにしているのだが、絶景を三枚で構成するのも難しい作業だ。南湖大山南峰(標高3,470b、百岳29号)、巴巴山(同3,449b、百岳32号)、中央尖山東峰(同3,580b、無基点峰)、中央尖山(同3,705b、百岳10号)と南に連なる稜線は実に豪快である。左写真は朝日を浴びる南湖大山南稜、主峰斜面に続く断崖部分が南峰と巴巴山である。中央写真は雪山連峰、右写真は南湖山荘を含む下圏谷北側を俯瞰したもの、南湖大山北峰から切れ落ちるように形成された鹿野忠雄の特定した4号カール、その後方の南湖北山のスロープが写る。(終り)
2022年01月29日
南湖大山−2
【写真説明】この壮大無比の山塊を文字にして紹介するのも難しければ、二回の山行で多数撮影した写真の中から選び出して構成し直すのも難しい。尻すぼみのような恰好だが、南湖大山主峰に至る迄の露払いにスペースを割き過ぎたかもしれない。いずれにしても、主峰の紹介は三回の投稿記事で済ませることにする。南湖山荘(標高3,390b)を出て緩やかな登りとなる下圏谷の最低部を南下、鹿野忠雄の特定した1号カールを目指す。そのカールの中途に立つ三叉路標示板、山荘との標高差は300b、主峰との標高差は50bしかない。このまま更に南進すると南湖大山南峰に至り、そこでそのまま稜線伝いに中央尖山を目指すか、一旦1,500bの大下りを演じ中央尖渓まで降りて仕舞い、そこから中央尖山に取り付くか。南湖大山方面から中央尖山を目指すハイカーに後者のルートを辿るパーティーがあるのか?は筆者は判らない。上段中央写真はその三叉路の上部、落差50bの主峰山腹、上段右写真は主峰頂上の遠望。下段写真は主峰頂上の陸測一等三角点標石と中央尖山、両座の標高差は30b強、南湖大山が僅かに高い。この三角点標石の埋定、点の記に「埋定、大正七年六月廿一日、陸地測量士吉野半平」の記録有り。大正7年とは、1918年、筆者の過去二回の登攀時は未だ百年を越えていなかったが、今はとうに一世紀を過ぎてしまった。標石四辺の保護石は埋定時のものではないかと思わせる。(続く)
2022年01月15日
南湖大山−1
2022年01月01日
俯瞰図:南湖大山
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南湖大山の魅力に関しては、先に『俯瞰図:審馬陣山』にメルマガ『台湾の声』への投稿記事から転載することに依り語り尽くしたので、ここで新ためて繰り返す愚行はしない。引用した記事を今後数回に渡り大判の写真で視覚的に補完したいと思う。今回は今現在上圏谷、下圏谷と呼ばれる二条の谷と、鹿野忠雄が特定した四つの圏谷が浮き出るように南側からの俯瞰とした。審馬陣山俯瞰図で引用した投稿記事中で述べたように、第3、4号圏谷のみが台湾学会では、所謂カールと知見されている。一つだけコメントする。これまで初回登攀と二回目との印象差を処々で述べて来た。中でも一番の思い違いは、二日目多加屯避難小屋から南湖山荘まで長駆しそのまま夕飯前の時間を利用し主峰まで登り詰めたと記憶していたことだ。詰り、山荘から労せずして頂上に立ったと思い込んでいたことだ。当時の撮影データを見ると主峰登攀は三日目であることに気付き、あれっと思った次第。それで、二回目の主峰登攀の時、頂上迄何と遠いことだと嘆いたわけだ。実際は山荘〜山頂間は2`弱、1時間半程度の登りだ。斯様に十年の隔たりは大きい。(終り)
南湖大山の魅力に関しては、先に『俯瞰図:審馬陣山』にメルマガ『台湾の声』への投稿記事から転載することに依り語り尽くしたので、ここで新ためて繰り返す愚行はしない。引用した記事を今後数回に渡り大判の写真で視覚的に補完したいと思う。今回は今現在上圏谷、下圏谷と呼ばれる二条の谷と、鹿野忠雄が特定した四つの圏谷が浮き出るように南側からの俯瞰とした。審馬陣山俯瞰図で引用した投稿記事中で述べたように、第3、4号圏谷のみが台湾学会では、所謂カールと知見されている。一つだけコメントする。これまで初回登攀と二回目との印象差を処々で述べて来た。中でも一番の思い違いは、二日目多加屯避難小屋から南湖山荘まで長駆しそのまま夕飯前の時間を利用し主峰まで登り詰めたと記憶していたことだ。詰り、山荘から労せずして頂上に立ったと思い込んでいたことだ。当時の撮影データを見ると主峰登攀は三日目であることに気付き、あれっと思った次第。それで、二回目の主峰登攀の時、頂上迄何と遠いことだと嘆いたわけだ。実際は山荘〜山頂間は2`弱、1時間半程度の登りだ。斯様に十年の隔たりは大きい。(終り)
2021年12月18日
南湖北山−南湖大山北峰(3,592b、無基点)
2021年12月04日
俯瞰図:南湖北山
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登山道15`附近から天に開かれた稜線上南斜面は審馬陣草原と呼称される。審馬陣山山頂と南湖北山頂上間の距離は約3`、この草原地帯の美しさは、初回登攀の際は筆者の記憶から飛んでおり、二回目の折りも何故か印象に無いのだ。この投稿記事を起こすに当たり当時撮影した写真を眺めていて気付いたのだ。登山道19`に相当する南湖北山山頂も審馬陣山と同じく登山道から北側に僅かに入り込んだ地点になる。山容もはっきりしないのも同様である。通常、『俯瞰図』の部分には写真は掲載して来なかったが、今回は以下5枚の写真を添えて南湖北山の記事を閉じることにする。
上段左写真は審馬陣山屋、避難小屋の風情である。審馬陣山から更に南湖北山側へ歩を進め稜線登山道から南側へ大きく下り、又、登り返して稜線登山道に戻り南湖北山を目指さなければならないので難儀だ。二回目の登攀時ここまで降りて昼食を摂ったと思う。同中央写真は審馬陣草原から仰ぐ南湖北山。同右写真は草原中の池塘越しに南湖大山西側斜面の断崖を望む。下段左写真は南湖北山頂上と陸測三等三角点。同右写真は南湖北山頂上を過ぎ北峰へ向かう稜線中途から見る北山全貌。(終り)
登山道15`附近から天に開かれた稜線上南斜面は審馬陣草原と呼称される。審馬陣山山頂と南湖北山頂上間の距離は約3`、この草原地帯の美しさは、初回登攀の際は筆者の記憶から飛んでおり、二回目の折りも何故か印象に無いのだ。この投稿記事を起こすに当たり当時撮影した写真を眺めていて気付いたのだ。登山道19`に相当する南湖北山山頂も審馬陣山と同じく登山道から北側に僅かに入り込んだ地点になる。山容もはっきりしないのも同様である。通常、『俯瞰図』の部分には写真は掲載して来なかったが、今回は以下5枚の写真を添えて南湖北山の記事を閉じることにする。
上段左写真は審馬陣山屋、避難小屋の風情である。審馬陣山から更に南湖北山側へ歩を進め稜線登山道から南側へ大きく下り、又、登り返して稜線登山道に戻り南湖北山を目指さなければならないので難儀だ。二回目の登攀時ここまで降りて昼食を摂ったと思う。同中央写真は審馬陣草原から仰ぐ南湖北山。同右写真は草原中の池塘越しに南湖大山西側斜面の断崖を望む。下段左写真は南湖北山頂上と陸測三等三角点。同右写真は南湖北山頂上を過ぎ北峰へ向かう稜線中途から見る北山全貌。(終り)
2021年11月20日
審馬陣山−4
【写真説明】登山道14`附近から稜線は草原地帯に転じ、この後登山道最高地点となる19`地点、南湖大山北峰(標高3,592b)に至るまで360度の豪快な眺望に搦め取られる。先ず進行方向右手に中央尖山の雄姿が立ち現れる。更に行く手右側、即ち南側に目を転じると合歓山連峰まで明瞭に望める。それが上掲左写真である。同写真右上奥に写る尖峰は「一奇」、奇莱山北峰である。この眺望を逆に望んだ一例は、「畢祿山−1」に掲載した写真である。登山道を振り返り来し方を見やると、これまで辿って来た稜線越しに雪山山脈の総覧が飛び込んで来る。上掲中央写真は稜線登山道越しに雪山山脈南部をズームし佳陽山(岩盤が露出した山塊)とその両側の大剣山、剣山、更に雪山山脈の左側同写真上中央部は白姑大山群峰である。上掲右写真は審馬陣山山頂直下より望む雪山(稜線上の瘤状の山塊)。この稜線登山道より100b程離れた場所にある審馬陣山山頂は地形上は何の特徴も無く何故台湾百岳に選定されているのか判らない。只手軽に百岳登頂を約束されると云うのは有難い。三角点は陸測三等である。最後になってしまったが、この山名の由来はタイヤル語「シンバジン」の日本語漢音訳である。(終り)
2021年11月06日
審馬陣山−3
【写真説明】伝統的な思源唖口登山口から最初のマイルストーンとも言える多加屯山避難小屋、又は多加屯山迄は約9`、次のマイルストーンは、通常登山第一日目の宿泊地となる稜雲山荘、登山口から12`附近である。上段は10〜12`附近の点景、下段は稜雲山荘の内外観を掲載した。上掲左写真は気持ちの良い稜線上の平坦部で池塘がある。この点景は二回目の南湖大山行の際、一回目の印象が僅かだが残存していた数少ない場所の一つだ。南湖山荘までの登山道総延長凡そ20`の中間点辺りだ。上掲中央写真は、更に歩を進めると現れる樹林帯で森全体が湿潤している気配があった。この付近の初回の山行の印象は皆無だったが、この稿を起こすに当たり暫く写真を眺めていたら、夜中、原住民ポーターに連れられムササビ狩りをしながら下山する途中で、ヘッドランプの光に真っ赤に反応する樹上のムササビに目を凝らしていた場所ではなかったろうか?と思うことだった。上掲右写真は、11`附近の通称「木杆鞍部」と呼ばれる南湖渓小屋方面、詰り中央尖山へ直接取り付く登山道との分岐点だ。何故この写真を掲載したかと言うと、この分岐点に至る少し手前で、中央尖山に登られ下山途中の八十歳を越えたハイカーに遭遇したからだ。中央尖山、台湾百岳10号、標高3,705b、台湾五岳では無いが、「尖」を文字通り体現した山岳で、台湾人ハイカーにとり一度は登っておきたい圧倒的な名峰だ。筆者にチャンスはあるだろうか?(続く)
2021年10月23日
審馬陣山−2
【写真説明】上掲左写真は710林道の稜線取り付きから急坂を登り切った場所で、通称「松風嶺」、8`地点である。但し、松の種類は判らず、当時は興味が無かったのだ。ネット上の山行記録に松の種類まで言及したものが無いのは後述する状況と同じである。どうも台湾二葉松のようだ。そこから本格的な稜線沿いの登山道に切り替わり約500b緩い登りを辿ると多加屯避難小屋(中央写真)に到着する。最初の山小屋になるのだが、数人が眠れる程度の小さなものだ。初回時に実際仮眠を取った時の印象より二回目のそれは随分大きく見えた。そんなことより初回時の印象との一番の落差は登山口からの距離感である。二回目はショートカットを利用したはずなのにこの小屋迄五時間を要した。途中この小屋がなかなか現れなので取り壊されたのかと訝ったものだ。初回時、木曜日の終業と共に高雄飛行場に急ぎ台北松山飛行場へ、そこからパートナーの車で旧北宜公路を越えて宜蘭市街地を突っ切り中横公路を思源唖口登山口迄ぶっ飛ばした。そのまま即座に710林道を駆け足する感じで突っ走り、この小屋に到着、有給を取った金曜日の午前2時頃だったと記憶している。そのまま避難小屋で朝6時ぐらいまで仮眠、その後南湖山屋迄長駆した。そういうわけで登山口から避難小屋迄はあっという間だったと云う刷り込みになっていたのだ。右写真は避難小屋附近から西側(来し方)の眺望、雪山山脈である。前回の投稿記事で既に紹介したように新登山口から入ると最初に出会うピークは勝光山であるが、旧登山口からだと、避難小屋を通過すると直ぐに出会う、通称水利三角点(森林課三角点、下掲左写真)と多加屯山(陸測三等、右写真)である。これら三座が審馬陣山の前峰と云うことになる。
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2021年10月09日
審馬陣山−1
【写真説明】南湖大山へはこれまで二度登る機会があった。2004年5月と2013年10月である。前者は二人組のパーティー、後者は五人組のパーティーで臨んだ。南湖大山への登山口は台7甲線(旧省道7甲線、中横公路宜蘭支線)沿いにあり、710林道の起点である伝統的な登山口は、思源唖口登山口(上掲左写真)と通称される。一回目はこの登山口から入山した。と言うよりそこが当時唯一の登山口だったはずで、710林道を7`弱(正確には6.8`)辿った後に稜線への取っ付きになる。乗用車は乗り入れ禁止だがバイクは入れるので、ポーターとなったり狩猟を目的とする原住民はバイクを大いに利用していると思われた。二回目の時はその後開鑿されたと思われる、唖口登山口より台7線を約4`南に下った地点にある勝光登山口(上掲中央写真)を利用した。勝光はタイヤル語の漢音訳のはずだが、オリジナルの発音判らず、日本時代の地形図には「有勝」駐在所の漢字記載あり、現在同位置に勝光派出所がある(上掲右写真に写るオレンジの建築物)。勝光口からの登山道はその先で710林道と合流させる為のもので、忠実に林道を辿るコースのショートカットだ。710林道の4.8`地点で合流(下掲中央写真)、勝光登山口からは2.3`の距離になるので、2.5`の短縮ということである。下掲左写真は勝光新登山道の合流地点手前に台湾省政府圖根点を持つ勝光山(標高2,285b)頂上付近、但し筆者の眼には触れず仕舞い。下掲右写真は前出の710林道6.8`地点の稜線取り付き、稜線まで1`強の急登となる。以上、二つの登山口、登山道の関係をサラリと書いたが、何せ二回の登山は凡そ十年の隔たり有り、二回目登山の際、最初の登山の印象は消えかかっていたこともあり、この稿を起こすに当たり当時撮影した写真を長い間眺めた果てにやっと整理出来た次第である。(続く)
2021年09月25日
俯瞰図:審馬陣山
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俯瞰図そのものは審馬陣山に特化したものでは無く、台湾中央山脈南一段の帝王、南湖大山主峰への伝統的な登山道を俯瞰したものである。従って、今回のナレーションも審馬陣山に焦点を当てたものでは無く南湖大山系全体の印象を記したいと思う。幸いなことに最近メルマガ『台湾の声』に投稿した記事(「台湾の桃源郷−南湖大山とシャクナゲ」2021年5月16日投稿)の中に適当なものがあったのでそのまま抜粋してスタートさせることにした。ひょっとしたら筆者の台湾中央山脈行はこれが最後になるかもしれない:
<ナンコシャクナゲ>
台湾の桃源郷は何処かと問われれば、筆者は南湖大山と即答する。氷河に削り出された南湖大山群峰とそれらに取り囲まれた壮大な谷を擁する天国的な大パノラマと撓わ(たわわ)に咲き誇るナンコシャクナゲの点景の取り合せの妙は感動的である。自然の斧で切鑿された剥き出しの荒々しさと広大な谷底の静謐が同居している。それ故、台湾人ハイカーの間では、台湾山岳の王者とか帝王と呼ばれる。南湖大山登頂の機会はこれまで二回あるが、初回時は丁度ナンコシャクナゲの開花期に重なったのはこの上なく幸運だったと憶う。
台湾人には使い辛いらしく余り流通していないが、2千元札の裏のデザインは、バックに中央尖山(標高3,705メートル)を従えた南湖大山と台湾の国宝魚と呼ばれる「タイワンマス」(台湾の正式名称は「台灣櫻花鉤吻鮭」、サケ科)の組み合わせになっている。南湖大山の図柄は一番手前に半円球状の低木群が描き込まれているが、ナンコシャクナゲの群生である。
ニイタカシャクナゲとナンコシャクナゲは花弁を比較して見分けるのは難しい。大きな違いはナンコシャクナゲの葉裏は赤褐色の毛に覆われておりコーヒー色に見えることである。又、ニイタカシャクナゲが山系を問わず広く分布しているのに対し、ナンコシャクナゲの場合、分布の中心が南湖大山系の一部地域に限定されていることである。しかも、南湖大山系に限ってもニイタカシャクナゲの生育域が遥かに広いのではないかと思う。更に、ナンコシャクナゲは低木で、丈が2メートルを越えるのは珍しいとされる。
[本文へ...]
俯瞰図そのものは審馬陣山に特化したものでは無く、台湾中央山脈南一段の帝王、南湖大山主峰への伝統的な登山道を俯瞰したものである。従って、今回のナレーションも審馬陣山に焦点を当てたものでは無く南湖大山系全体の印象を記したいと思う。幸いなことに最近メルマガ『台湾の声』に投稿した記事(「台湾の桃源郷−南湖大山とシャクナゲ」2021年5月16日投稿)の中に適当なものがあったのでそのまま抜粋してスタートさせることにした。ひょっとしたら筆者の台湾中央山脈行はこれが最後になるかもしれない:
<ナンコシャクナゲ>
台湾の桃源郷は何処かと問われれば、筆者は南湖大山と即答する。氷河に削り出された南湖大山群峰とそれらに取り囲まれた壮大な谷を擁する天国的な大パノラマと撓わ(たわわ)に咲き誇るナンコシャクナゲの点景の取り合せの妙は感動的である。自然の斧で切鑿された剥き出しの荒々しさと広大な谷底の静謐が同居している。それ故、台湾人ハイカーの間では、台湾山岳の王者とか帝王と呼ばれる。南湖大山登頂の機会はこれまで二回あるが、初回時は丁度ナンコシャクナゲの開花期に重なったのはこの上なく幸運だったと憶う。
台湾人には使い辛いらしく余り流通していないが、2千元札の裏のデザインは、バックに中央尖山(標高3,705メートル)を従えた南湖大山と台湾の国宝魚と呼ばれる「タイワンマス」(台湾の正式名称は「台灣櫻花鉤吻鮭」、サケ科)の組み合わせになっている。南湖大山の図柄は一番手前に半円球状の低木群が描き込まれているが、ナンコシャクナゲの群生である。
ニイタカシャクナゲとナンコシャクナゲは花弁を比較して見分けるのは難しい。大きな違いはナンコシャクナゲの葉裏は赤褐色の毛に覆われておりコーヒー色に見えることである。又、ニイタカシャクナゲが山系を問わず広く分布しているのに対し、ナンコシャクナゲの場合、分布の中心が南湖大山系の一部地域に限定されていることである。しかも、南湖大山系に限ってもニイタカシャクナゲの生育域が遥かに広いのではないかと思う。更に、ナンコシャクナゲは低木で、丈が2メートルを越えるのは珍しいとされる。
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2021年09月11日
白姑大山−6
2021年08月28日
白姑大山−5
2021年08月14日
白姑大山−4
【写真説明】右写真は司晏池露営地と100b強の標高差のある白姑大山東南峰、無基点峰である。登山二日目朝6時40分通過、丁度10時間後の16時40分に帰還。折角100b稼いだのにそこから一旦標高差約300bの下りになる。その後、白姑大山主脈と主峰への分岐点草青池を目指し落差a500b程登り返すのだが、この登りは非常に堪えた。この斜面でG博士脱落。同時に高山針葉樹群生が目立ち始めるのだが、筆者は残念ながらそれらを明確に特定出来ない。先ず台湾鐵(鉄)杉(タイワンツガ、栂)、台湾雲杉(ニイタカトウヒ、唐檜)が現れ、最高部は台湾冷杉(ニイタカトドマツ、椴松)の純林になるのだが、中央写真並びに右写真が台湾鉄杉か台湾雲杉のどちらかは判らない。もしかしたら台湾冷杉が入り込んでいるかもしれない。いずれにしても、息を吞むような見事な植生の連続である。(続く)