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閂山に実際登攀した後も、この百岳の一座の位置を上手くイメージ出来ずにいた。一体何処の山域に属するのか?と謂った素朴な疑問だ。実際はそれより早くに畢祿山に登攀した際、その頂上で撮影した写真の中に閂山が写り込んでいるのをかなり後になり発見した。中文版ウィキペディアの閂山の項は以下の説明が附されている:中央山脈北二段は中央尖山以南、畢祿山に至る中央山脈縦走路であり、甘薯峰、無明山、鈴鳴山、閂山の四座が含まれる。北二段の登山道は峻険だが、閂山と鈴鳴山は連続して730林道からアクセス出来る。今回掲載した俯瞰図は北二段を東側から俯瞰したイメージである。とは言え、このカテゴリーを書き起こすに当たり、さて閂山はどのような山容であったのか、全く思い起こせず、当時撮影した写真を見返しても記憶が鮮やかに蘇ると云うこともない。なだらかな長い頂上稜線をいただく平凡な山容を呈する山である。
さて、この山名である。2014年当時何故この百岳に登ってみようと考えたのか思い出せないのだが、山名に魅せられたことは大いに想像が付く。日本時代、「かんぬき・やま」とよんでいたのか?「サン・サン」と呼んでいたのか?は判らないが、当然前者が好ましいと誰もが思う。台湾のネット上ではその由来を不明としている向きが多いのだが、「クヌギ」の樹と「閂」を関連付けた由来を紹介した記事も多い。クヌギは漢字一字なら、「櫟、椚、橡、栩、椡」等があるのだが、「閂」は「椚」の転化ではないか?と謂う説明である。筆者の手元にある日本時代の地形図帳では、その標記は、何と木偏に閂、恐らく存在しない漢字である。誤植かどうかは判らないが、戦後閂を使い始めたのではないか?閂山一帯クヌギは良く分布しているそうである。
林務局管理下の林道は公式サイトを見ると台湾全土で80強線あるのだが、730林道はその中に入っていない。その理由は既に廃棄林道になっているからだろう。そもそもこの数字自体その由来の予想が難しい。自動車道幹線である台7線(旧省道7号線)からアクセスするからではないか?という台湾ネット上の説明に往き当たったが、成る程と思った。既に紹介済みの畢祿山への登山道に利用されている820林道も同様に台8線に繋がる。730林道の全長は28`、閂山と鈴鳴山のアクセスに利用されている廃棄林道であるが、古道ならぬ古林道の様相を呈しており、旧林道沿いに残る縁石等には厚く苔が纏わり付き、廃墟の美を醸し出している。(終り)
2021年02月27日
2021年06月19日
俯瞰図:白姑大山
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俯瞰ダイヤグラムには白「姑」の漢字を使ったが、筆者の手元の地図帳の表記に従った。偶々同山岳の陸地測量部の点の記を眺めていたら「狗」の表記になっていた。筆者の印象では現在の台湾では「姑」の使用が支配的だと思う。
今回俯瞰図を作成するに当たり苦心したのは、白姑大山を含む白姑大山連峰の位置をどう読者に理解して貰えるかであった。前回の閂山もそうだが、現在の日本人には全く馴染みの無い百岳の一座の稜線のみを強調しても意味が無いと考えたからだ。中華民国山岳協会に依ると白姑大山を含む山域は中央山脈に属する。そうすると中央山脈の最も西側の支脈で大甲渓を挟んで雪山山脈南部と対峙することになる。と云う表現も可能だが筆者の手元の市販地図では白姑大山から八仙山に連なる南側稜線には雪山山脈の表記が附されている。と云う具合に白姑大山連峰の位置は定義し辛いと云うのが筆者の印象だった。それ故、下山後もこの中央山脈支脈の位置付けが不明瞭のままだった。明瞭になったのは前出の八仙山を始めとする所謂「谷関七雄」を完登した後である。白姑大山の紹介を終えた後、続けて台中市が市民健康増進の為に毎年キャンペーンを撃っている谷関七雄も紹介する予定である。
中央山脈の西端で雪山山脈南部と対峙していると云うような表現は、グーグル・マップとかグーグル・アースで位置を特定する際役に立たない。やはり自動車道、それも幹線自動車道を手掛かり足掛かりにするのが良い。この方法だと西は彰化市街地と東は花蓮県新城を結ぶ中央山脈越えの中部横貫公路(中横)西側大甲渓に沿った段と、埔里盆地から清境農場を経て合歓山群峰に駆け上がる通称中横霧社支線とに囲まれた山域であり、南は雪山山脈南端に繋がり北は合歓山群峰に繋がるというような表現が良いかもしれない。
台8線は台湾有数の河川と云うより渓谷沿い、台14号支線は台湾自動車道最高所まで登るので両道路は大きな標高差があり、勢い台14号線から白姑大山連峰を眺められるということであり、これに気付いたのは白姑大山登山後である。
何故この山を目指したかはもう記憶に無い。考えられるのは、単攻を試みる猛者がいることを聞いて組し易しと思ったのかもしれない。筆者の場合、山中二泊して漸う下山した。
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俯瞰ダイヤグラムには白「姑」の漢字を使ったが、筆者の手元の地図帳の表記に従った。偶々同山岳の陸地測量部の点の記を眺めていたら「狗」の表記になっていた。筆者の印象では現在の台湾では「姑」の使用が支配的だと思う。
今回俯瞰図を作成するに当たり苦心したのは、白姑大山を含む白姑大山連峰の位置をどう読者に理解して貰えるかであった。前回の閂山もそうだが、現在の日本人には全く馴染みの無い百岳の一座の稜線のみを強調しても意味が無いと考えたからだ。中華民国山岳協会に依ると白姑大山を含む山域は中央山脈に属する。そうすると中央山脈の最も西側の支脈で大甲渓を挟んで雪山山脈南部と対峙することになる。と云う表現も可能だが筆者の手元の市販地図では白姑大山から八仙山に連なる南側稜線には雪山山脈の表記が附されている。と云う具合に白姑大山連峰の位置は定義し辛いと云うのが筆者の印象だった。それ故、下山後もこの中央山脈支脈の位置付けが不明瞭のままだった。明瞭になったのは前出の八仙山を始めとする所謂「谷関七雄」を完登した後である。白姑大山の紹介を終えた後、続けて台中市が市民健康増進の為に毎年キャンペーンを撃っている谷関七雄も紹介する予定である。
中央山脈の西端で雪山山脈南部と対峙していると云うような表現は、グーグル・マップとかグーグル・アースで位置を特定する際役に立たない。やはり自動車道、それも幹線自動車道を手掛かり足掛かりにするのが良い。この方法だと西は彰化市街地と東は花蓮県新城を結ぶ中央山脈越えの中部横貫公路(中横)西側大甲渓に沿った段と、埔里盆地から清境農場を経て合歓山群峰に駆け上がる通称中横霧社支線とに囲まれた山域であり、南は雪山山脈南端に繋がり北は合歓山群峰に繋がるというような表現が良いかもしれない。
台8線は台湾有数の河川と云うより渓谷沿い、台14号支線は台湾自動車道最高所まで登るので両道路は大きな標高差があり、勢い台14号線から白姑大山連峰を眺められるということであり、これに気付いたのは白姑大山登山後である。
何故この山を目指したかはもう記憶に無い。考えられるのは、単攻を試みる猛者がいることを聞いて組し易しと思ったのかもしれない。筆者の場合、山中二泊して漸う下山した。
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2021年09月25日
俯瞰図:審馬陣山
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俯瞰図そのものは審馬陣山に特化したものでは無く、台湾中央山脈南一段の帝王、南湖大山主峰への伝統的な登山道を俯瞰したものである。従って、今回のナレーションも審馬陣山に焦点を当てたものでは無く南湖大山系全体の印象を記したいと思う。幸いなことに最近メルマガ『台湾の声』に投稿した記事(「台湾の桃源郷−南湖大山とシャクナゲ」2021年5月16日投稿)の中に適当なものがあったのでそのまま抜粋してスタートさせることにした。ひょっとしたら筆者の台湾中央山脈行はこれが最後になるかもしれない:
<ナンコシャクナゲ>
台湾の桃源郷は何処かと問われれば、筆者は南湖大山と即答する。氷河に削り出された南湖大山群峰とそれらに取り囲まれた壮大な谷を擁する天国的な大パノラマと撓わ(たわわ)に咲き誇るナンコシャクナゲの点景の取り合せの妙は感動的である。自然の斧で切鑿された剥き出しの荒々しさと広大な谷底の静謐が同居している。それ故、台湾人ハイカーの間では、台湾山岳の王者とか帝王と呼ばれる。南湖大山登頂の機会はこれまで二回あるが、初回時は丁度ナンコシャクナゲの開花期に重なったのはこの上なく幸運だったと憶う。
台湾人には使い辛いらしく余り流通していないが、2千元札の裏のデザインは、バックに中央尖山(標高3,705メートル)を従えた南湖大山と台湾の国宝魚と呼ばれる「タイワンマス」(台湾の正式名称は「台灣櫻花鉤吻鮭」、サケ科)の組み合わせになっている。南湖大山の図柄は一番手前に半円球状の低木群が描き込まれているが、ナンコシャクナゲの群生である。
ニイタカシャクナゲとナンコシャクナゲは花弁を比較して見分けるのは難しい。大きな違いはナンコシャクナゲの葉裏は赤褐色の毛に覆われておりコーヒー色に見えることである。又、ニイタカシャクナゲが山系を問わず広く分布しているのに対し、ナンコシャクナゲの場合、分布の中心が南湖大山系の一部地域に限定されていることである。しかも、南湖大山系に限ってもニイタカシャクナゲの生育域が遥かに広いのではないかと思う。更に、ナンコシャクナゲは低木で、丈が2メートルを越えるのは珍しいとされる。
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俯瞰図そのものは審馬陣山に特化したものでは無く、台湾中央山脈南一段の帝王、南湖大山主峰への伝統的な登山道を俯瞰したものである。従って、今回のナレーションも審馬陣山に焦点を当てたものでは無く南湖大山系全体の印象を記したいと思う。幸いなことに最近メルマガ『台湾の声』に投稿した記事(「台湾の桃源郷−南湖大山とシャクナゲ」2021年5月16日投稿)の中に適当なものがあったのでそのまま抜粋してスタートさせることにした。ひょっとしたら筆者の台湾中央山脈行はこれが最後になるかもしれない:
<ナンコシャクナゲ>
台湾の桃源郷は何処かと問われれば、筆者は南湖大山と即答する。氷河に削り出された南湖大山群峰とそれらに取り囲まれた壮大な谷を擁する天国的な大パノラマと撓わ(たわわ)に咲き誇るナンコシャクナゲの点景の取り合せの妙は感動的である。自然の斧で切鑿された剥き出しの荒々しさと広大な谷底の静謐が同居している。それ故、台湾人ハイカーの間では、台湾山岳の王者とか帝王と呼ばれる。南湖大山登頂の機会はこれまで二回あるが、初回時は丁度ナンコシャクナゲの開花期に重なったのはこの上なく幸運だったと憶う。
台湾人には使い辛いらしく余り流通していないが、2千元札の裏のデザインは、バックに中央尖山(標高3,705メートル)を従えた南湖大山と台湾の国宝魚と呼ばれる「タイワンマス」(台湾の正式名称は「台灣櫻花鉤吻鮭」、サケ科)の組み合わせになっている。南湖大山の図柄は一番手前に半円球状の低木群が描き込まれているが、ナンコシャクナゲの群生である。
ニイタカシャクナゲとナンコシャクナゲは花弁を比較して見分けるのは難しい。大きな違いはナンコシャクナゲの葉裏は赤褐色の毛に覆われておりコーヒー色に見えることである。又、ニイタカシャクナゲが山系を問わず広く分布しているのに対し、ナンコシャクナゲの場合、分布の中心が南湖大山系の一部地域に限定されていることである。しかも、南湖大山系に限ってもニイタカシャクナゲの生育域が遥かに広いのではないかと思う。更に、ナンコシャクナゲは低木で、丈が2メートルを越えるのは珍しいとされる。
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2021年12月04日
俯瞰図:南湖北山
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登山道15`附近から天に開かれた稜線上南斜面は審馬陣草原と呼称される。審馬陣山山頂と南湖北山頂上間の距離は約3`、この草原地帯の美しさは、初回登攀の際は筆者の記憶から飛んでおり、二回目の折りも何故か印象に無いのだ。この投稿記事を起こすに当たり当時撮影した写真を眺めていて気付いたのだ。登山道19`に相当する南湖北山山頂も審馬陣山と同じく登山道から北側に僅かに入り込んだ地点になる。山容もはっきりしないのも同様である。通常、『俯瞰図』の部分には写真は掲載して来なかったが、今回は以下5枚の写真を添えて南湖北山の記事を閉じることにする。
上段左写真は審馬陣山屋、避難小屋の風情である。審馬陣山から更に南湖北山側へ歩を進め稜線登山道から南側へ大きく下り、又、登り返して稜線登山道に戻り南湖北山を目指さなければならないので難儀だ。二回目の登攀時ここまで降りて昼食を摂ったと思う。同中央写真は審馬陣草原から仰ぐ南湖北山。同右写真は草原中の池塘越しに南湖大山西側斜面の断崖を望む。下段左写真は南湖北山頂上と陸測三等三角点。同右写真は南湖北山頂上を過ぎ北峰へ向かう稜線中途から見る北山全貌。(終り)
登山道15`附近から天に開かれた稜線上南斜面は審馬陣草原と呼称される。審馬陣山山頂と南湖北山頂上間の距離は約3`、この草原地帯の美しさは、初回登攀の際は筆者の記憶から飛んでおり、二回目の折りも何故か印象に無いのだ。この投稿記事を起こすに当たり当時撮影した写真を眺めていて気付いたのだ。登山道19`に相当する南湖北山山頂も審馬陣山と同じく登山道から北側に僅かに入り込んだ地点になる。山容もはっきりしないのも同様である。通常、『俯瞰図』の部分には写真は掲載して来なかったが、今回は以下5枚の写真を添えて南湖北山の記事を閉じることにする。
上段左写真は審馬陣山屋、避難小屋の風情である。審馬陣山から更に南湖北山側へ歩を進め稜線登山道から南側へ大きく下り、又、登り返して稜線登山道に戻り南湖北山を目指さなければならないので難儀だ。二回目の登攀時ここまで降りて昼食を摂ったと思う。同中央写真は審馬陣草原から仰ぐ南湖北山。同右写真は草原中の池塘越しに南湖大山西側斜面の断崖を望む。下段左写真は南湖北山頂上と陸測三等三角点。同右写真は南湖北山頂上を過ぎ北峰へ向かう稜線中途から見る北山全貌。(終り)
2022年01月01日
俯瞰図:南湖大山
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南湖大山の魅力に関しては、先に『俯瞰図:審馬陣山』にメルマガ『台湾の声』への投稿記事から転載することに依り語り尽くしたので、ここで新ためて繰り返す愚行はしない。引用した記事を今後数回に渡り大判の写真で視覚的に補完したいと思う。今回は今現在上圏谷、下圏谷と呼ばれる二条の谷と、鹿野忠雄が特定した四つの圏谷が浮き出るように南側からの俯瞰とした。審馬陣山俯瞰図で引用した投稿記事中で述べたように、第3、4号圏谷のみが台湾学会では、所謂カールと知見されている。一つだけコメントする。これまで初回登攀と二回目との印象差を処々で述べて来た。中でも一番の思い違いは、二日目多加屯避難小屋から南湖山荘まで長駆しそのまま夕飯前の時間を利用し主峰まで登り詰めたと記憶していたことだ。詰り、山荘から労せずして頂上に立ったと思い込んでいたことだ。当時の撮影データを見ると主峰登攀は三日目であることに気付き、あれっと思った次第。それで、二回目の主峰登攀の時、頂上迄何と遠いことだと嘆いたわけだ。実際は山荘〜山頂間は2`弱、1時間半程度の登りだ。斯様に十年の隔たりは大きい。(終り)
南湖大山の魅力に関しては、先に『俯瞰図:審馬陣山』にメルマガ『台湾の声』への投稿記事から転載することに依り語り尽くしたので、ここで新ためて繰り返す愚行はしない。引用した記事を今後数回に渡り大判の写真で視覚的に補完したいと思う。今回は今現在上圏谷、下圏谷と呼ばれる二条の谷と、鹿野忠雄が特定した四つの圏谷が浮き出るように南側からの俯瞰とした。審馬陣山俯瞰図で引用した投稿記事中で述べたように、第3、4号圏谷のみが台湾学会では、所謂カールと知見されている。一つだけコメントする。これまで初回登攀と二回目との印象差を処々で述べて来た。中でも一番の思い違いは、二日目多加屯避難小屋から南湖山荘まで長駆しそのまま夕飯前の時間を利用し主峰まで登り詰めたと記憶していたことだ。詰り、山荘から労せずして頂上に立ったと思い込んでいたことだ。当時の撮影データを見ると主峰登攀は三日目であることに気付き、あれっと思った次第。それで、二回目の主峰登攀の時、頂上迄何と遠いことだと嘆いたわけだ。実際は山荘〜山頂間は2`弱、1時間半程度の登りだ。斯様に十年の隔たりは大きい。(終り)
2022年02月26日
俯瞰図:南湖大山東峰
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東峰は眺める山と言うより登って楽しむ山だと云う気がする。見栄えが悪いと云う意味では無い。登山道が付いている南側斜面は広大な平面で、スレート状の薄い岩盤が敷き詰められ、陽が上るとキラキラ輝き、眼を射る。南湖大山連峰の中で地形的にユニークだ。頂上に三角測量標石は無い。頂上の高度感とスリル感は抜群だ。今回の俯瞰図はこの斜面に向かう様に回転させたのだが、実際の鋭角感と高度感からは程遠い。この峰は鹿野忠雄特定の2号カールを形成している。その形成は氷蝕運動に依るのは判るのだが、氷河地形として何と呼称されるのか?筆者は判らない。各種の氷河地形の呼称は、明らかに日本と台湾では異なる上に、日本のカタカナ表記は複数外国語訳表記が入り乱れているので、文献を読み比べてみても特定が煩わしい。前者は圏谷と氷斗、後者はホーンとホルンの関係がその一例だ。加えて、日本では更に和語での地形呼称がある。切戸とキレットの類(実はどちらも和語)だ。鎌尾根は学術用語か?筆者が勝手に思い巡らすに、東峰は氷蝕尖塔(ホーン)か、痩せ尾根(アレート、和語では鎌尾根か?)では?ホーンは英語だが、アレートはフランス語だそうだ。。。いづれにしても、次回の投稿で掲載する写真をご閲覧願いたい。(終り)
東峰は眺める山と言うより登って楽しむ山だと云う気がする。見栄えが悪いと云う意味では無い。登山道が付いている南側斜面は広大な平面で、スレート状の薄い岩盤が敷き詰められ、陽が上るとキラキラ輝き、眼を射る。南湖大山連峰の中で地形的にユニークだ。頂上に三角測量標石は無い。頂上の高度感とスリル感は抜群だ。今回の俯瞰図はこの斜面に向かう様に回転させたのだが、実際の鋭角感と高度感からは程遠い。この峰は鹿野忠雄特定の2号カールを形成している。その形成は氷蝕運動に依るのは判るのだが、氷河地形として何と呼称されるのか?筆者は判らない。各種の氷河地形の呼称は、明らかに日本と台湾では異なる上に、日本のカタカナ表記は複数外国語訳表記が入り乱れているので、文献を読み比べてみても特定が煩わしい。前者は圏谷と氷斗、後者はホーンとホルンの関係がその一例だ。加えて、日本では更に和語での地形呼称がある。切戸とキレットの類(実はどちらも和語)だ。鎌尾根は学術用語か?筆者が勝手に思い巡らすに、東峰は氷蝕尖塔(ホーン)か、痩せ尾根(アレート、和語では鎌尾根か?)では?ホーンは英語だが、アレートはフランス語だそうだ。。。いづれにしても、次回の投稿で掲載する写真をご閲覧願いたい。(終り)
2022年03月26日
俯瞰図:南湖大山南峰
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前回の南湖大山東峰の紹介を以て、愈々このブログのタイトルである「聖稜線」に入る予定であったが、近々で南湖大山南峰まで辿る機会があった。筆者自身の最新の台湾百岳登攀記録である。この時期に自己の公的・私的双方のスケジュールに対し非常な無理を押してこの山行を入れ込んだのは、健康上の事由からの焦りである。四月に入ってしまうと、高山シャクナゲの開花を堪能出来るが、梅雨を控え台湾の天候は不安定になるので、どうしても出来るだけ早くの敢行が必要だと踏んだのだ。何故南湖大山を選んだからと言うと、未踏の南峰、巴巴山(百岳32号、3,448b)は、筆者の現在の体力で、余裕を持って南湖山屋をベースにして日帰り往復が可能と判断したからだ。
結果は散々だった。一つは天候である。入山から下山迄の丸五日間、雨に降られた。加えて猛烈な風である。この間、南湖大山群峰、中央尖山を代表する中央山脈北一段の山容を垣間見ることすら出来ない冷たい灰色の世界だった。唯一の救いは、シャクナゲの開花を目の当たり出来たことだ。シャクナゲに雨も風も関係無い。入山三日目、その雨と風を押して南峰のみの登攀を目指した。南峰の南稜線上の巴巴山迄足を延ばすことは端から放棄した。台湾人ガイドの勇断に非常に感謝するものである。もう一つは高山病の発症だ。筆者は高山病には耐性があると思い込んでいたのだが、この自信は今回の山行で大いにへし折られてしまった。僅かな登り勾配に身体が敏感に反応し猛烈に気分が悪くなる。持病の亢進、その薬の副作用、慢性的な鬱病に依る睡眠不足等々色々原因は思い浮かぶが、要は筆者の体力は高山登山は限界に近着きつつあるということだろう。
南湖大山南峰は奇怪な尖峰である。2013年山行時のパノラマ写真を埋め込んだ。南湖大山主峰から中央尖山へ至る稜線上の真ん中付近の突起がそれだ。台湾ハイカーの間では「沈黙の巨人」と云う呼称があることを下山後に知った。沈黙とは、無基点峰の為自ずから登山家を招くことはしないし、そうそう容易に登攀はさせないない山容を擁していると云う意味だろうか?南湖大山主峰と南峰の標高差は250b程あるので、大概のハイカーは主峰頂上、又はその登頂途中から南峰を俯瞰することになる。すると南峰を取り巻く巨石群とそこから起立する南峰の垂直感を感得するのは難しい。筆者自身は前回2013年の山行の際、南峰も散々撮影していたのだが、巨石群の存在と南峰の高度感、垂直感は全く理解していなかった。逆に言うと、今回現場に至ったにも拘わらず、天候のせいでこれら二つながら霧中(夢中)の出来事になってしまった。そういう悔悟を込めて今回の俯瞰図を起こした。南湖主峰と南峰の稜線は台中市(西側)と花蓮県(東側)の境界を定めているが、実際の登山道はこの境界より東側を辿り南峰に取り付く。(終り)
前回の南湖大山東峰の紹介を以て、愈々このブログのタイトルである「聖稜線」に入る予定であったが、近々で南湖大山南峰まで辿る機会があった。筆者自身の最新の台湾百岳登攀記録である。この時期に自己の公的・私的双方のスケジュールに対し非常な無理を押してこの山行を入れ込んだのは、健康上の事由からの焦りである。四月に入ってしまうと、高山シャクナゲの開花を堪能出来るが、梅雨を控え台湾の天候は不安定になるので、どうしても出来るだけ早くの敢行が必要だと踏んだのだ。何故南湖大山を選んだからと言うと、未踏の南峰、巴巴山(百岳32号、3,448b)は、筆者の現在の体力で、余裕を持って南湖山屋をベースにして日帰り往復が可能と判断したからだ。
結果は散々だった。一つは天候である。入山から下山迄の丸五日間、雨に降られた。加えて猛烈な風である。この間、南湖大山群峰、中央尖山を代表する中央山脈北一段の山容を垣間見ることすら出来ない冷たい灰色の世界だった。唯一の救いは、シャクナゲの開花を目の当たり出来たことだ。シャクナゲに雨も風も関係無い。入山三日目、その雨と風を押して南峰のみの登攀を目指した。南峰の南稜線上の巴巴山迄足を延ばすことは端から放棄した。台湾人ガイドの勇断に非常に感謝するものである。もう一つは高山病の発症だ。筆者は高山病には耐性があると思い込んでいたのだが、この自信は今回の山行で大いにへし折られてしまった。僅かな登り勾配に身体が敏感に反応し猛烈に気分が悪くなる。持病の亢進、その薬の副作用、慢性的な鬱病に依る睡眠不足等々色々原因は思い浮かぶが、要は筆者の体力は高山登山は限界に近着きつつあるということだろう。
南湖大山南峰は奇怪な尖峰である。2013年山行時のパノラマ写真を埋め込んだ。南湖大山主峰から中央尖山へ至る稜線上の真ん中付近の突起がそれだ。台湾ハイカーの間では「沈黙の巨人」と云う呼称があることを下山後に知った。沈黙とは、無基点峰の為自ずから登山家を招くことはしないし、そうそう容易に登攀はさせないない山容を擁していると云う意味だろうか?南湖大山主峰と南峰の標高差は250b程あるので、大概のハイカーは主峰頂上、又はその登頂途中から南峰を俯瞰することになる。すると南峰を取り巻く巨石群とそこから起立する南峰の垂直感を感得するのは難しい。筆者自身は前回2013年の山行の際、南峰も散々撮影していたのだが、巨石群の存在と南峰の高度感、垂直感は全く理解していなかった。逆に言うと、今回現場に至ったにも拘わらず、天候のせいでこれら二つながら霧中(夢中)の出来事になってしまった。そういう悔悟を込めて今回の俯瞰図を起こした。南湖主峰と南峰の稜線は台中市(西側)と花蓮県(東側)の境界を定めているが、実際の登山道はこの境界より東側を辿り南峰に取り付く。(終り)
2022年06月18日
俯瞰図:鈴鳴山
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本来、南湖大山東峰の投稿を終えた後は、中央山脈から離れ愈々雪山山脈の台湾百岳の紹介に移る予定だった。ところが、東峰紹介の後に南峰の紹介が間に合うタイミングで南湖大山三回目の山行を敢行出来た。その時点で台湾百岳50座完登までに残り一座、5月第2週に唯一与し易しと想像していた中央山脈北二段に属する鈴鳴山への山行を組んだ。既に「閂山」で紹介済みのように、通常は閂山と鈴鳴山の百岳二座は、共に730林道沿いに登山口を持つ為、山中一泊、乃至は二泊で登れてしまう。短時間で百岳二座征服可能な手軽さが、北二段中では脇役的な山容を擁するこれら二座の最近の人気の理由だ。しかも、閂山へは登攀済みなので、鈴鳴山も又与し易しと考えていた理由である。
八年前(2014年5月)、閂山山行の入山前に露営地として利用した、730林道入口にあった林務局環山検査哨の建物は消えていた。しかし、その後の車道としての同林道のワイルドさはそのままであり、恐らく今現在自家用車で乗り入れるハイカーは皆無ではないかと思われた。730林道自体は既に廃棄されており修復する予算など無いと思うのだが、その状況は逆にこの林道走破に先鋭化された白タクサービスを大いに繁盛させていると思った。林道約11`地点の白タクサービス終点、即ち北二段登山口から閂山・鈴鳴山登山ベースの林道25`地点の工寮迄の歩行区間には大きな変化は見られなかった。
この通称25K工寮は、先に閂山に登った際に一泊したのだが、倒壊寸前の様相を呈していたと云うイメージがあった。最近のネット上の山行記録を見る限りでは、この古典的な林務局工寮は最早宿泊所としての機能は失われているものと考えられた。実際は、板敷きの床はまだまだしっかりしており雨、風、夜露は完璧に防げる。約23`地点の閂山登山口からこの工寮までの登山道沿いに多くの露営地が設営されているのを目撃した。詰まり、25K工寮のスペースが増え続ける登山客を収容するには余りにも小さ過ぎると云う事に合点が行った。
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本来、南湖大山東峰の投稿を終えた後は、中央山脈から離れ愈々雪山山脈の台湾百岳の紹介に移る予定だった。ところが、東峰紹介の後に南峰の紹介が間に合うタイミングで南湖大山三回目の山行を敢行出来た。その時点で台湾百岳50座完登までに残り一座、5月第2週に唯一与し易しと想像していた中央山脈北二段に属する鈴鳴山への山行を組んだ。既に「閂山」で紹介済みのように、通常は閂山と鈴鳴山の百岳二座は、共に730林道沿いに登山口を持つ為、山中一泊、乃至は二泊で登れてしまう。短時間で百岳二座征服可能な手軽さが、北二段中では脇役的な山容を擁するこれら二座の最近の人気の理由だ。しかも、閂山へは登攀済みなので、鈴鳴山も又与し易しと考えていた理由である。
八年前(2014年5月)、閂山山行の入山前に露営地として利用した、730林道入口にあった林務局環山検査哨の建物は消えていた。しかし、その後の車道としての同林道のワイルドさはそのままであり、恐らく今現在自家用車で乗り入れるハイカーは皆無ではないかと思われた。730林道自体は既に廃棄されており修復する予算など無いと思うのだが、その状況は逆にこの林道走破に先鋭化された白タクサービスを大いに繁盛させていると思った。林道約11`地点の白タクサービス終点、即ち北二段登山口から閂山・鈴鳴山登山ベースの林道25`地点の工寮迄の歩行区間には大きな変化は見られなかった。
この通称25K工寮は、先に閂山に登った際に一泊したのだが、倒壊寸前の様相を呈していたと云うイメージがあった。最近のネット上の山行記録を見る限りでは、この古典的な林務局工寮は最早宿泊所としての機能は失われているものと考えられた。実際は、板敷きの床はまだまだしっかりしており雨、風、夜露は完璧に防げる。約23`地点の閂山登山口からこの工寮までの登山道沿いに多くの露営地が設営されているのを目撃した。詰まり、25K工寮のスペースが増え続ける登山客を収容するには余りにも小さ過ぎると云う事に合点が行った。
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2022年08月27日
俯瞰図:桃山
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愈々、このブログのタイトルの「聖稜線」に入る。既にこのブログの記事の中でも聖稜線と云う単語の出所については紹介済みと理解している。聖稜線を含む雪山山脈の山岳の紹介を始めるに当たり、もう少し聖稜線に説明を加える。
台湾山岳協会の総幹事、沼井鉄太郎のパーティーは、昭和2年(1927年)、タイヤル族の聖山、大覇尖山(標高3,490b、百岳29号)に初登頂、翌年発表した小論文『關於攀登大覇尖山之考察與實行』(日本語タイトルの中文訳)の中に以下の下りがあり、爾来大覇尖山から次高山(現在の雪山主峰:同3,886b、百岳2号)までの稜線は台湾登山界で「聖稜線」の名で呼ばれるようになった:
「聖なる稜線、大霸尖山−次高山の真正のトラヴァース(縦走)、果たして何人がその栄誉を荷ひ、その真美を語り得るだらうか。」
さて、それは良い。筆者が苦労したのは、日本のサイトを渉猟しても、沼井のその小論文のタイトル、収録されている機関紙名、又、引用した下りの日本語原文、往き当らないことだ。大体、ウィキペディア日本語版には沼井鉄太郎そのものが存在しない。他方、台湾版には詳細な紹介が出ている。更に台湾では極めて著名な下りの日本語原文は、何と雪覇国家公園の日本語公式サイトの中にあった。いやはや日本人にとり台湾は遠くになりにけりである。
以上の様に聖稜線の本来のルートは大霸尖山と雪山主峰を結ぶ稜線だが、このブログでは広義の聖稜線として本来の稜線から派生している稜線上の山岳も含めることにしている。
筆者の雪山山脈の登攀歴もそう多くない。武稜四秀、聖稜線O線、大覇尖山、志佳陽大山、(番外編)大小剣山の順で紹介する予定だ。
今回の俯瞰図は雪山山脈の山岳の紹介の手始めとして沼井の聖稜線(大覇尖山-雪山=次高山)と最初の紹介となる武稜四秀(桃山-喀拉業山-池有山-品田山)の四座をシンプルに抱き合わせた。(終り)
愈々、このブログのタイトルの「聖稜線」に入る。既にこのブログの記事の中でも聖稜線と云う単語の出所については紹介済みと理解している。聖稜線を含む雪山山脈の山岳の紹介を始めるに当たり、もう少し聖稜線に説明を加える。
台湾山岳協会の総幹事、沼井鉄太郎のパーティーは、昭和2年(1927年)、タイヤル族の聖山、大覇尖山(標高3,490b、百岳29号)に初登頂、翌年発表した小論文『關於攀登大覇尖山之考察與實行』(日本語タイトルの中文訳)の中に以下の下りがあり、爾来大覇尖山から次高山(現在の雪山主峰:同3,886b、百岳2号)までの稜線は台湾登山界で「聖稜線」の名で呼ばれるようになった:
「聖なる稜線、大霸尖山−次高山の真正のトラヴァース(縦走)、果たして何人がその栄誉を荷ひ、その真美を語り得るだらうか。」
さて、それは良い。筆者が苦労したのは、日本のサイトを渉猟しても、沼井のその小論文のタイトル、収録されている機関紙名、又、引用した下りの日本語原文、往き当らないことだ。大体、ウィキペディア日本語版には沼井鉄太郎そのものが存在しない。他方、台湾版には詳細な紹介が出ている。更に台湾では極めて著名な下りの日本語原文は、何と雪覇国家公園の日本語公式サイトの中にあった。いやはや日本人にとり台湾は遠くになりにけりである。
以上の様に聖稜線の本来のルートは大霸尖山と雪山主峰を結ぶ稜線だが、このブログでは広義の聖稜線として本来の稜線から派生している稜線上の山岳も含めることにしている。
筆者の雪山山脈の登攀歴もそう多くない。武稜四秀、聖稜線O線、大覇尖山、志佳陽大山、(番外編)大小剣山の順で紹介する予定だ。
今回の俯瞰図は雪山山脈の山岳の紹介の手始めとして沼井の聖稜線(大覇尖山-雪山=次高山)と最初の紹介となる武稜四秀(桃山-喀拉業山-池有山-品田山)の四座をシンプルに抱き合わせた。(終り)
2022年12月17日
俯瞰図:喀拉業山
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北京語読みでは「カライエ」、日本時代は「カラヘエ」と表記されていた(例:陸地測量部大正13年版5万分の一)。その事実を現在の台湾人は、日本人は「加留平山」と呼称していたと云う紹介文に仕立てることになるのだが、実際は前述のようカタカナ表記していた。そのカタカナ表記に戦後漢音を合せたわけだ。「平」を以て喀拉業山山頂のまるで百岳のピークらしからぬだだっ広い空間を示唆させたものとも考えたが、「ヘエ」の当て字に最も便利な漢字だったからだと筆者は考える。詰まり実際の頂上の地形と当て字との間に直接的な関係が意識されているわけではないと言うことだ。筆者の手元の地図帳には「坪」の漢字が充ててあるが、これなら良い。当時山頂に設営されていた林務局に依る案内板の説明、「喀拉業山と周辺の環境紹介」(中文・英文のみ)は、短いが良く書かれていたので拙訳する。後半部の訳出はかなり覚束ないのは勘弁して欲しい:
「眼前の風景を覆い尽くしている冷杉(モミ属)と鐡杉(ツガ属)針葉樹林帯の頭部が喀拉業山であり、その山名はタイヤル語の「karaheye」の漢音訳である。別称「加留平山」、武稜四秀中の最年少者である。桃山から喀拉業山に掛けての沿線はびっしりと玉山箭竹に覆われ日に尚暗く、登山者が通常目にする開かれた景観とは異なる。この為行く手は比較的困難を極め、丈の高い箭竹が密生し非常に長く感じられる。多くの登山者にとってまるで低電圧から高電圧に晒されるようなもので登頂の苦しみを味わう。」
片道3.5`の往復に林務局が形容するような苦痛を味わったかどうか?記憶に乏しい。但し、残雪が登山道の各所に有り少なからず慎重になったであろう。いずれにしても、再び桃山登山を試みる機会があるかどうか?
当時撮影した写真を見ていたら桃山−喀拉業山の稜線内に詩崙山(標高3,149b)と云う無基点峰があることに気付いた。その存在など筆者の記憶からは完全に一掃されていた。字面は優雅だがその由来未だに判らず。(終り)
北京語読みでは「カライエ」、日本時代は「カラヘエ」と表記されていた(例:陸地測量部大正13年版5万分の一)。その事実を現在の台湾人は、日本人は「加留平山」と呼称していたと云う紹介文に仕立てることになるのだが、実際は前述のようカタカナ表記していた。そのカタカナ表記に戦後漢音を合せたわけだ。「平」を以て喀拉業山山頂のまるで百岳のピークらしからぬだだっ広い空間を示唆させたものとも考えたが、「ヘエ」の当て字に最も便利な漢字だったからだと筆者は考える。詰まり実際の頂上の地形と当て字との間に直接的な関係が意識されているわけではないと言うことだ。筆者の手元の地図帳には「坪」の漢字が充ててあるが、これなら良い。当時山頂に設営されていた林務局に依る案内板の説明、「喀拉業山と周辺の環境紹介」(中文・英文のみ)は、短いが良く書かれていたので拙訳する。後半部の訳出はかなり覚束ないのは勘弁して欲しい:
「眼前の風景を覆い尽くしている冷杉(モミ属)と鐡杉(ツガ属)針葉樹林帯の頭部が喀拉業山であり、その山名はタイヤル語の「karaheye」の漢音訳である。別称「加留平山」、武稜四秀中の最年少者である。桃山から喀拉業山に掛けての沿線はびっしりと玉山箭竹に覆われ日に尚暗く、登山者が通常目にする開かれた景観とは異なる。この為行く手は比較的困難を極め、丈の高い箭竹が密生し非常に長く感じられる。多くの登山者にとってまるで低電圧から高電圧に晒されるようなもので登頂の苦しみを味わう。」
片道3.5`の往復に林務局が形容するような苦痛を味わったかどうか?記憶に乏しい。但し、残雪が登山道の各所に有り少なからず慎重になったであろう。いずれにしても、再び桃山登山を試みる機会があるかどうか?
当時撮影した写真を見ていたら桃山−喀拉業山の稜線内に詩崙山(標高3,149b)と云う無基点峰があることに気付いた。その存在など筆者の記憶からは完全に一掃されていた。字面は優雅だがその由来未だに判らず。(終り)
2023年04月29日
俯瞰図:品田山
▲[←俯瞰図はココをクリック]
品田山の書き起こしも池有山と同じく山名考から始める。明らかに「しなだ」と読むべきだろうと思うが、台湾側のエピソードだと「しなだ」と云う姓の日本人に由来するのではなさそうだ。池有山と同じ資料に依れば以下の通りだ(筆者拙訳)。訳文中の()部分は筆者自身の註であるが、タイヤル語のカタカナ表記は参考程度に読んで欲しい:
品田山は典型的な日本(語)式山名だ。日本語の発音は「シナダ」、当時この名前を選定した日本人は本州東北地方の出身者に違いない。と云うのは元々東北地方の人々は常々湿地帯を「田」又は「岱」(タイ)と称しており、岱は更に山中の湿地も指し、日本の古語では「田井」と云う用例がある。「品」は日本語の中では非常に多くの意味があるが、東北地方の場合、特に「田」を以て山名に多用されているのは、山中に多くの沼沢や水池があるからだ。実際の用例としては、八甲田山、八幡平、十和田等がその一例だ。以上の用例に依り、品田山の日本語中に於ける意味は、恐らく多くの湿地、水池(池塘)を持つ山と云うことになるだろう。実際、品田山から喀拉業山の稜線伝いには多くの水池が存在しており、タイヤル族は特にこの山域を「siron」(シロン)と呼んで来たが、正にタイヤル語で水池の意味である。就中、品田−池有の間は特に水池が集中しており、日本人は元々「tamalabu」(タマラブ)<日本人の台湾領有初期は「タマラフ:日本漢音表記は玉羅府」>と呼称されていた山域を池有山に改編、元々「pochinsiron」(ポチンシロン)<タイヤル語で最後の水池の意>と呼称されていた山域を、純粋に高山水池の地理的特性に依り品田山と改編した。従って、品田山の名の由来は、広く流布しているように頂上山塊を形成するユニークな岩石の褶曲構造が「品田」の漢字に見えるからではなく、台湾の山岳コミュニティによって広められたデマの結果である。
残念ながらこの台湾サイト上の山名考には出典が明記されていないので、上記の説にどれ程の専門性と信憑性があるかは筆者では判断が付かない。何れにしても、湿地と云う地理的特性を切り口にしている部分は、山肌に浮かび上がる品田様の漢字の字面説よりは説得力がありそうに思える。
聖稜線O線に於いて、品田山から雪山北峰間の稜線は連続する断崖故にハイカーにとっては縦走の白眉となる。日本での登山経験が専ら中央・南アルプスに集中し、北アルプスはほんの齧った程度の経験しか無かった筆者にとり、聖稜線断崖が一般ルートとは俄かには信じ難かった。その洗礼を最初に浴びたのが、品田山頂上から更に西側に縦走を進めるべく大きくダウンする品田断崖だった。実際、聖稜線O線上の上記区間の著名な断崖は素密達を加え二箇所のみなのだが、同日に二箇所とも越えなければ(実際は降る)ならないのも手強い部分である。
今回の俯瞰図は、従って先ず品田断崖が口を空けてハイカーを待ち構えている北側からの絵とした。台湾第二の高峰、雪山主峰への入門ルートである、武稜農場から雪山東峰経由の縦走路から仰ぎ見るのは南側稜線で、今回の俯瞰図の稜線とは真逆であることもわざわざ北側稜線の俯瞰図を採用した理由の一つだ。南側稜線に堂々たる異様(威容)を呈している品田山は誰でも直ぐに認識出来るのは前述の山名由来の記の中に出て来る褶曲構造故である。追って今後の投稿の中で紹介する予定だ。
今は亡き妻がもう一度歩いてみたかったのは聖稜線O線であることを私は知っている。最早夢となってしまったが、私一人ですら夢物語である。(終り)
品田山の書き起こしも池有山と同じく山名考から始める。明らかに「しなだ」と読むべきだろうと思うが、台湾側のエピソードだと「しなだ」と云う姓の日本人に由来するのではなさそうだ。池有山と同じ資料に依れば以下の通りだ(筆者拙訳)。訳文中の()部分は筆者自身の註であるが、タイヤル語のカタカナ表記は参考程度に読んで欲しい:
品田山は典型的な日本(語)式山名だ。日本語の発音は「シナダ」、当時この名前を選定した日本人は本州東北地方の出身者に違いない。と云うのは元々東北地方の人々は常々湿地帯を「田」又は「岱」(タイ)と称しており、岱は更に山中の湿地も指し、日本の古語では「田井」と云う用例がある。「品」は日本語の中では非常に多くの意味があるが、東北地方の場合、特に「田」を以て山名に多用されているのは、山中に多くの沼沢や水池があるからだ。実際の用例としては、八甲田山、八幡平、十和田等がその一例だ。以上の用例に依り、品田山の日本語中に於ける意味は、恐らく多くの湿地、水池(池塘)を持つ山と云うことになるだろう。実際、品田山から喀拉業山の稜線伝いには多くの水池が存在しており、タイヤル族は特にこの山域を「siron」(シロン)と呼んで来たが、正にタイヤル語で水池の意味である。就中、品田−池有の間は特に水池が集中しており、日本人は元々「tamalabu」(タマラブ)<日本人の台湾領有初期は「タマラフ:日本漢音表記は玉羅府」>と呼称されていた山域を池有山に改編、元々「pochinsiron」(ポチンシロン)<タイヤル語で最後の水池の意>と呼称されていた山域を、純粋に高山水池の地理的特性に依り品田山と改編した。従って、品田山の名の由来は、広く流布しているように頂上山塊を形成するユニークな岩石の褶曲構造が「品田」の漢字に見えるからではなく、台湾の山岳コミュニティによって広められたデマの結果である。
残念ながらこの台湾サイト上の山名考には出典が明記されていないので、上記の説にどれ程の専門性と信憑性があるかは筆者では判断が付かない。何れにしても、湿地と云う地理的特性を切り口にしている部分は、山肌に浮かび上がる品田様の漢字の字面説よりは説得力がありそうに思える。
聖稜線O線に於いて、品田山から雪山北峰間の稜線は連続する断崖故にハイカーにとっては縦走の白眉となる。日本での登山経験が専ら中央・南アルプスに集中し、北アルプスはほんの齧った程度の経験しか無かった筆者にとり、聖稜線断崖が一般ルートとは俄かには信じ難かった。その洗礼を最初に浴びたのが、品田山頂上から更に西側に縦走を進めるべく大きくダウンする品田断崖だった。実際、聖稜線O線上の上記区間の著名な断崖は素密達を加え二箇所のみなのだが、同日に二箇所とも越えなければ(実際は降る)ならないのも手強い部分である。
今回の俯瞰図は、従って先ず品田断崖が口を空けてハイカーを待ち構えている北側からの絵とした。台湾第二の高峰、雪山主峰への入門ルートである、武稜農場から雪山東峰経由の縦走路から仰ぎ見るのは南側稜線で、今回の俯瞰図の稜線とは真逆であることもわざわざ北側稜線の俯瞰図を採用した理由の一つだ。南側稜線に堂々たる異様(威容)を呈している品田山は誰でも直ぐに認識出来るのは前述の山名由来の記の中に出て来る褶曲構造故である。追って今後の投稿の中で紹介する予定だ。
今は亡き妻がもう一度歩いてみたかったのは聖稜線O線であることを私は知っている。最早夢となってしまったが、私一人ですら夢物語である。(終り)
2023年09月23日
俯瞰図:雪山北峰
▲[←俯瞰図はココをクリック]
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佐々木舜一「大覇尖山及次高山連峰縦走記」に従えば、雪山主峰と雪山北峰は各々次高山主山と次高山北峰である。このブログ内で筆者は以前「次高山北山」という呼称を用いたが、佐々木の記事中であったのか、それとも筆者の思い込みであったのか、定かならず。余りにもニイタカ連峰の呼称を意識し過ぎたかもしれない。
既に百岳の3,700b峰、雪山北峰の巨大なドーム状の威容には十二分に両眼を慣らされて来た上に、三日目の聖稜線O線登攀も豪快な快晴に恵まれたこともあり、今回の俯瞰図は前回の投稿記事の中で大いに述べた幻のムトロツプ山( 穆特勒布山)に焦点が当たるよう切り取って来た積りだ。追加参考図を付与したのは、品田山から雪山北峰までの稜線も起伏が激しく俯瞰する高度を高くしてしまうと、その起伏がぼやけてしまうからだ。
ムトロツプ山は先ずはスミダ山(素密達山)との混同として筆者の目の前に立ち現れたが、四日目早朝からは現実の大きな壁として我々の行く手を遮る。後で知ったことだが、多くのハイカーがスミダ山屋に荷を置き空身でムトロツプ山山頂を往復するようだ。それが終わると、品田山(下り)、雪山北峰(上り)のいづれかのルートを辿る。我々はこの空身の部分は止めにして、詰まりムトロツプ山山頂登攀をスキップして山腹をトラバース、一営地(ムトロツプ山と雲達卡山、ウンダカ山と呼ぼう、の鞍部)で聖稜線、即ち苗栗県泰安郷と台中市和平区との境界線に合流するコースを取った。当日我々のガイドからはそのような説明を受けなかったが、受けたとしてもそれに賛成、反対の意を唱えられるだけの知識も経験も無かったのだが。
一般的にトラバースは直登に替わる迂回コースのことだが、スミダ山屋から聖稜線に出会うまでのトラバースは我々には全く直登の連続だった。我々だけが苦闘したのだろうか?試しに台湾の関連サイトを覗いてみると、GPS記録上に地獄開始とか死路とかの文字がある。。。この取っ掛かりのトラバースが三日目のハイライトと云ったところか。同日、もう一つのハイライトは終点、雪北山屋付近の玉山圓柏の群生とそこからの豪華な夕陽、朝陽の眺望か。(終り)
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佐々木舜一「大覇尖山及次高山連峰縦走記」に従えば、雪山主峰と雪山北峰は各々次高山主山と次高山北峰である。このブログ内で筆者は以前「次高山北山」という呼称を用いたが、佐々木の記事中であったのか、それとも筆者の思い込みであったのか、定かならず。余りにもニイタカ連峰の呼称を意識し過ぎたかもしれない。
既に百岳の3,700b峰、雪山北峰の巨大なドーム状の威容には十二分に両眼を慣らされて来た上に、三日目の聖稜線O線登攀も豪快な快晴に恵まれたこともあり、今回の俯瞰図は前回の投稿記事の中で大いに述べた幻のムトロツプ山( 穆特勒布山)に焦点が当たるよう切り取って来た積りだ。追加参考図を付与したのは、品田山から雪山北峰までの稜線も起伏が激しく俯瞰する高度を高くしてしまうと、その起伏がぼやけてしまうからだ。
ムトロツプ山は先ずはスミダ山(素密達山)との混同として筆者の目の前に立ち現れたが、四日目早朝からは現実の大きな壁として我々の行く手を遮る。後で知ったことだが、多くのハイカーがスミダ山屋に荷を置き空身でムトロツプ山山頂を往復するようだ。それが終わると、品田山(下り)、雪山北峰(上り)のいづれかのルートを辿る。我々はこの空身の部分は止めにして、詰まりムトロツプ山山頂登攀をスキップして山腹をトラバース、一営地(ムトロツプ山と雲達卡山、ウンダカ山と呼ぼう、の鞍部)で聖稜線、即ち苗栗県泰安郷と台中市和平区との境界線に合流するコースを取った。当日我々のガイドからはそのような説明を受けなかったが、受けたとしてもそれに賛成、反対の意を唱えられるだけの知識も経験も無かったのだが。
一般的にトラバースは直登に替わる迂回コースのことだが、スミダ山屋から聖稜線に出会うまでのトラバースは我々には全く直登の連続だった。我々だけが苦闘したのだろうか?試しに台湾の関連サイトを覗いてみると、GPS記録上に地獄開始とか死路とかの文字がある。。。この取っ掛かりのトラバースが三日目のハイライトと云ったところか。同日、もう一つのハイライトは終点、雪北山屋付近の玉山圓柏の群生とそこからの豪華な夕陽、朝陽の眺望か。(終り)
2024年02月17日
俯瞰図:雪山主峰
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今回の俯瞰図は前回雪山北峰俯瞰図の聖稜線を南に延長させたに過ぎない。本来の聖稜線の最南端は雪山主峰である限りに於いてそれで良い。今回当時撮影した写真を何度も行きつ戻りつしながら感じていたのは、聖稜線はその終結に向かい独特の風貌を露わにし出し始めたなと云うことだ。独特の風貌とは鹿野忠雄が特定した無数に近い氷河遺蹟たる圏谷の集合体が描き出した曲線美とでも言えるかもしれない。神はこの曲線を雪山山脈に閉じ込める一方で、太字の荒々しい直線性を玉山山脈に封じ込んだ。。。そんなことを考えてみた。本来の俯瞰図は、鹿野が元々1号として特定した圏谷のみをクローズアップし、聖稜線を終結させた。
鹿野忠雄の功績―昭和7年(1932年)『地理學評論』上に発表した小論文「臺灣高山地域に於ける二三の地形學的觀察」、その後に続く二編の論文「臺灣南湖大山山彙に於ける氷蝕地形に就いて」(昭和9年・1934年)と「臺灣次高山に於ける氷河地形の研究」(昭和10年・1935年)―の一端は雪山山系に於いて32箇所の圏谷を特定している。その辺りの事情は「エピソード九 台湾の桃源郷―南湖大山とシャクナゲ」として拙著『新・台湾紀行』の中で紹介している。グーグル・マップでは第1号圏谷のみの記載だし、筆者の手元の市販地図帳では第2号止まりだ。尤も、この1、2号圏谷が鹿野忠雄特定のそれらと同じものかどうかは判然としない。というのは、これも『新・台湾紀行』の中で説明したが、台湾の戦後アカデミアでは、圏谷の用語を廃し冰斗に置き換えているからだ。いずれにしても、鹿野忠雄特定の1から3号圏谷を現代の地形図上にプロットしてみた。更に、南側からの俯瞰図に加え筆者のカメラと同じ方角からの俯瞰図も併せて並べた。
独特の風貌を定義するもう別の一つは第1号と第2号の圏谷壁を自ら攀じ登ろうとしているかのように感じさせる登山道の幾何学模様だ。これらの模様(もよう)は紋様(もんよう)へと変じる。
以上、既に筆者の言葉が枯渇しているのだが、カテゴリー『雪山主峰』のエピソードはなるべく次高山の風貌に迫りたいと希望するものである。(終り)
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今回の俯瞰図は前回雪山北峰俯瞰図の聖稜線を南に延長させたに過ぎない。本来の聖稜線の最南端は雪山主峰である限りに於いてそれで良い。今回当時撮影した写真を何度も行きつ戻りつしながら感じていたのは、聖稜線はその終結に向かい独特の風貌を露わにし出し始めたなと云うことだ。独特の風貌とは鹿野忠雄が特定した無数に近い氷河遺蹟たる圏谷の集合体が描き出した曲線美とでも言えるかもしれない。神はこの曲線を雪山山脈に閉じ込める一方で、太字の荒々しい直線性を玉山山脈に封じ込んだ。。。そんなことを考えてみた。本来の俯瞰図は、鹿野が元々1号として特定した圏谷のみをクローズアップし、聖稜線を終結させた。
鹿野忠雄の功績―昭和7年(1932年)『地理學評論』上に発表した小論文「臺灣高山地域に於ける二三の地形學的觀察」、その後に続く二編の論文「臺灣南湖大山山彙に於ける氷蝕地形に就いて」(昭和9年・1934年)と「臺灣次高山に於ける氷河地形の研究」(昭和10年・1935年)―の一端は雪山山系に於いて32箇所の圏谷を特定している。その辺りの事情は「エピソード九 台湾の桃源郷―南湖大山とシャクナゲ」として拙著『新・台湾紀行』の中で紹介している。グーグル・マップでは第1号圏谷のみの記載だし、筆者の手元の市販地図帳では第2号止まりだ。尤も、この1、2号圏谷が鹿野忠雄特定のそれらと同じものかどうかは判然としない。というのは、これも『新・台湾紀行』の中で説明したが、台湾の戦後アカデミアでは、圏谷の用語を廃し冰斗に置き換えているからだ。いずれにしても、鹿野忠雄特定の1から3号圏谷を現代の地形図上にプロットしてみた。更に、南側からの俯瞰図に加え筆者のカメラと同じ方角からの俯瞰図も併せて並べた。
独特の風貌を定義するもう別の一つは第1号と第2号の圏谷壁を自ら攀じ登ろうとしているかのように感じさせる登山道の幾何学模様だ。これらの模様(もよう)は紋様(もんよう)へと変じる。
以上、既に筆者の言葉が枯渇しているのだが、カテゴリー『雪山主峰』のエピソードはなるべく次高山の風貌に迫りたいと希望するものである。(終り)