2008年06月14日

俯瞰図:北大武山

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これまで掲載してきた大武山山塊写真の全部が高雄方面、つまり西側から望んだものである。これは大武山が台湾の中では広大な高屏平野の東端に起立している為、山塊すべてを平野部からでも容易に眺望出来るからである。これが東海岸、台東方面からだと事情が異なる。事情は東海岸一帯同じなのだが、山が海岸際まで迫り落ち込んで平野部が狭隘な為である。北大武山頂上から台東市街が俯瞰出来るが、逆に台東市街から眺める大武山山塊は頂上部山塊が僅かに覗くだけで山容の全貌は判らない。その頂上部山塊は尖鋒に見える。ここに掲載するダイアグラムは台東市街方面からズーム・インしていったイメージで、もし大武山山塊を東側から眺められるとするとどういう山容になるかを想像したものである。(了)
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2008年07月05日

俯瞰図:西巒大山

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台湾百岳の中で「巒」の文字を持つ山は、高い方から秀姑巒山、東巒大山、西巒大山の三座である。この巒という漢字は普段殆ど目にする機会はないが、かといって日本で全く使われていないというわけではなさそうだ。訓読みとして「みね」という読みがあり、文字通り「峰」「嶺」であり、幽谷・幽山の義であろう。だから、巒山と書いてしまうと、山々と書いているようなもので少々おかしいことになる。

実は今でもこの西巒大山が見えるであろう場所まで行っても、あれが西巒大山だと指差せずにいる。或る山を特定する為にはその山にまず登ってみることが鉄則である。さもなくば離れてみてもなかなか山容を特定出来ない。不思議な気が自分でもするが本当である。但し、この西巒大山だけは例外である。私はこの山に登った後も色々な場所から見ているはずなのだ。例えば、南投県水里辺りからは見えているのではないかと想像しているが自信は無い。それでその自分では特定出来ない山をグーグル・アースを使って再現してみたのが掲載の俯瞰図である。

手前に大きく広がるのは、台湾で最も有名な湖である日月潭である。西巒大山の中腹から日月潭が見えていたのは当時撮影した写真に残っている。それで、少なくとも日月潭上空からなら見えるはずだということで日月潭から南側を望んだイメージを作ってみた。するとかなり明確な山容が立ち現れて来た。そこで、日月潭周辺の何処からか見えているはずだと、嘗て日月潭の岸辺で露営した際に撮影した写真を色々見たがこの山だという写真は見当たらず。(了)
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2008年11月08日

俯瞰図:羊頭山

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羊頭山登山に関しては幾つか特徴がある。

まず、羊頭山は台湾百岳制定当時は、百座目であった為、今でも多くの登山者がそう思っている。それで百岳の「老『イ/ム』」(中国語で末っ子の意)と呼ばれる。少しでも百岳登山に興味があれば、まず第一座目の玉山に登った後は、なら次は第百座目を押さえておこうと思い至る。それで百岳の中でも以上の理由でよく登られている山である。

二つ目は、台湾の代表的な山岳自動車道の一本である中央横貫公路(省道8号線)、通称「中横」の道路脇に登山口があり、そこから頂上までは約5時間程度で登れる、所謂「日帰り可能な百岳」の一座である。

最後に、台湾百岳の中で動物の名を冠するのはこの羊頭山のみ、しかも十二支の一つなので、特に羊年の新年には縁起担ぎで登山者が集中する。最近では2003年がその年だった。

さて、この山を何処から眺めて羊頭に見立てたのかは判らない。羊頭山はもう一つの百岳である畢祿山(百岳第36座、3,371m)からの稜線続きで、この稜線も含め羊に見立てその頭部に当る部分を羊頭山としたであろうことはGoogle Earthのダイヤグラムを見ても明らかである。但し、西巒大山と同じで、畢祿山がよく見える合歓山方面から望んでもあれが羊頭山だと明確に指せずにいる。とにかく特徴に乏しい。

それでどんなダイヤグラムが適当か考えていた。

羊頭山の頂上に立った時、真っ先に飛び込んできたのは、無明山(百岳第29座、3,451m)のキラキラと銀色に照り輝く南斜面大崩壊部、実に強烈な印象だった。

それと前述した中横、日本人観光客にも御馴染みのタロコ大峡谷から延々と上り詰めるこの自動車道は何時走っても溜息が出る。連想するのは色々なこと。中横について書き出せば限がないのでここでは割愛するが、この現代自動車道建設のベースになったのは、日本時代の「理蕃道」、今は合歓山越嶺古道と呼ばれる。その内私のもう一つのブログ「台湾古道」で紹介できる日がくることを希望している。中横は西海岸側から登り詰める省道14号甲線と繋がり、合歓山主峰(百岳第34座、3,417m)と合歓山東峰(百岳第33座、3,421m)との鞍部を通過する最高点が何と標高3,275メートルある。日本でこの標高を持つ場所は富士山だけである。

それでこれら二つのイメージをGoogle Earthで描き出したのが今回のダイヤグラムである。一番手前の山肌を中横が走る。文字を入れた部分の標高は凡そ2,500メートルである。(了)
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2009年02月21日

俯瞰図:畢祿山

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畢祿山は羊頭山とは峰続きである。羊頭山が目立たないのに比べたら畢祿山は見付け易い。両百岳の間には鋸山と云われる七つの岩峰があり遠くからでもそれと判別出来るからで、その西端が畢祿山である。但し、グーグル・アースのダイヤグラムでは両座を結ぶ稜線は平坦に描かれている。

ダイヤグラムは、合歓山上空からの俯瞰図で、合歓山主峰と東峰の鞍部、武嶺(標高3,275m)まで車で登り詰めた行楽客が目にする典型的な北側方面の眺望である。

合歓山主峰上空からの眺望にしたのは、現在の登山口である大禹嶺トンネル(合歓[土/亜]口){[土/亜]口とは中国語で稜線の最低部、鞍部の意}とそれに続く畢祿山への登山道である八二○林道、西は台中から、東は花蓮、タロコ峡谷経由で登り詰める中横(省道8号線)と埔里・霧社方面から登り詰める省道14号甲線の関係を判り易くする為である。大禹嶺トンネルが、これら二つの山岳自動車道路の出合である。

[土/亜]口について。昔なら、道はここを狙って所謂峠道(とうげみち)になるわけだが、現代ならトンネルを通す。台湾百岳との関連で言うならば、良く知られた[土/亜]口は北から思源(標高1,948m→南湖大山、雪山連峰:)、合歓(同2,560m→合歓山、奇來山連峰)、大関山(同2,772m→中央山脈南一段、二段)がある。尚、台湾では[口/亜]の文字を充てている例をよく目にするが、この漢字は「おし」を意味するので誤用だと思う。(了)
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2009年05月16日

俯瞰図:卑南主山

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台湾中央山脈南一段縦走という場合、通常は卑南主山と関山(12座、3,668m)との間の縦走を指す。そして、標高の関係で、北側起点の関山から南側起点の卑南主山へ向かって歩かれる。この間、五泊五日が標準とされている。

この縦走で踏まれる台湾百岳は、庫哈諾辛山(85座、3,115m)→関山→海諾南山(77座、3,175m)→小関山(65座、3,249m)→卑南主山の順である。「庫哈諾辛」、「海諾南」は山名としては奇妙な印象を与えるが、各々ブヌン語を日本統治時代「ウハノシン」、「ハイノトーナン」等表記していたものを中国語音訳したものである。更に、小関山と卑南山との間には二座の三千メートル峰、雲水山(3,013m)と馬西巴秀山(3,022m)がある。現在この南一段の脊梁に沿って、西側高雄県、東側台東県の県境を形成している。ダイヤグラム中の灰色の線はこの県境である。南一段の判りやすいイメージを出す為に、卑南主山南西上空から中央山脈南一段北方向のダイヤグラムを作ってみた。

北側登山口は、通称「南横」、台湾を代表する山岳自動車の一つ、南部横貫公路(省道20号線)沿いにあるので便利だ。この登山口を起点とした往復だけを考慮すれば庫哈諾辛山は日帰りが可能な百岳である。

他方、南側登山口は厄介だ。高雄県六亀を経由して藤枝森林遊楽区に入る。嘗ては京都帝国大学の演習林の一部だった場所だ。ここが石山林道の起点になっているが、まずその林道を車で15キロ程辿り、その先は林道が崩壊しているので歩くこと一時間強で、林務局の通称石山工作站、作業小屋に着く。ここが登山口(下山口)で、入山(下山)時間によってはこの小屋で寝泊り出来る。

従って、北側から縦走してこの作業小屋まで辿り着いた後、重装備で一時間ぐらいは我慢して歩けてもその後さらに林道を15キロも歩き通すのは無理である。通常は予め車を手配しておく。今は携帯があるから便利ということになる。

尚、前述の藤枝は東海道五十三次の一宿、ここら辺りの経緯にご興味のある方は私の別ブログ「台湾古道」の中の「六亀特別警備道」をご覧になっていただきたい。

最後に、「卑南」とは卑南渓下流域、現在の台東市を中心とする一帯の古名である。(終わり)
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2009年11月21日

俯瞰図:小関山

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小関山とは明らかに関山に因んで名付けられたのだが、何を以てそう呼ばれるのかは私には未だに判らない。山容から、小振りの関山という意味だろうか?

南一段の縦走路に頼らずに、この山だけを目指す方法もある。私はそれに拠った。高雄県桃源郷宝来温泉を起点にし、その温泉郷の背後の山の急勾配をいきなり遡る小関山林道を辿る方法である。林道の終点に登山口が付いており、そこから往復4時間程度で登れてしまうので、この登山口に早い内に着ければ日帰り可能な百岳ということになる。

小関山登山は私には二つの意味で大きな印象を残した。一つは小関山林道自体の悪辣な路面である。今は、サイクリストにスリリングな旅を提供しているに違いないが、先般のモーラコット台風でまず宝来自体が壊滅的な打撃を被っているので、林道自体の状態も推してしるべしである。当時ですら、ひどいものだった。一箇所は山側の斜面が大きく崩れ落ちそのまま林道を跳び越し谷側の急斜面に土砂がなだれ込んでいる。そこに車一台がやっと通れるだけ土砂を取り除き車が通れるようにしてあるのだが、土盛りの上を乗り上げるような格好になっており、車の為に付けられたスペースがなにしろ谷側に向かい大きく傾いているのだ。おまけに土砂というより石ころだらけなので、車輪の噛みが悪い。申し訳程度のスペースから車輪が外れれば、或いはその土盛り自体が崩れてしまうと谷へ転落である。さすがにびびって、土盛りに乗り上げる時にスピードが出せず、土盛りの上で立ち往生してしまった。偶々沢登りで入ってきていたグループが通り掛かってくれ、彼らの誘導で何とか乗り越せたが。後一箇所とんでもない場所があったが、こんなことを繰り返し書いてもしようがないので、これだけに留める。台湾の林道は車で辿るには本当にスリリングである。

もう一つは林道沿線の紅葉である。過去、別な場所で書いたことがあるが、台湾の紅葉のメッカは、南投県仁愛郷奥万大である。私も行ったことがある。日本で目の当たりにできるような全山を覆うような紅葉を台湾では期待出来ない。緯度上無理からぬことである。だから、台湾では奥万大の紅葉が精々だという印象を持っていたので、小関山林道沿線の紅葉には実際仰天した。台湾の紅葉もここまでやるか、と唸ってしまったが、これとて幾ら文章にしてもつまらない。後に続く記事の中に写真を掲載することにしたい。

ダイヤグラムで見る通り、南面は穏やかな山容を見せている。頂上へ到る登山道は笹に覆われた南面を這い登る。大きく切れ落ちた頂上北斜面から関山を望むことになるが、実際の登山者が体験する俯瞰である。(了)
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2010年03月06日

俯瞰図:庫哈諾辛山

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「庫哈諾辛」はブヌン語の漢音表記である。というより日本時代のカタカナ表記を漢音表記したのではないかというのが私の予想である。正確な現代北京語読みに近いカタカナ表記は「クハヌォシン」であろう。私が最近購入した「臺灣地形圖新解」(上河文化、2007年3月2日出版、原図:大日本帝國陸地測量部、台灣總督府民政部警察本署)に依ると、当時(大正三年九月製版の五萬分一蕃地地形圖)の表記は「ウハノシン」である。

現代台湾のサイトでこのブヌン語の意味を解説したものがないかどうか探してみたが、意味不詳とのことである。響きは確かに優雅だ。それから女性的な山容と結び付けるのも自然な連想だろう。但し、ブヌン語である。やさしい響きがかならずしもやさしい意味と結び付くとは限らないが、言葉の響きと意味には相関があるのは古今東西共通だと、高校時分英語の教師が英語の[meadow]を引き合いに出し教えてくれたことを今でも覚えている。この英語の発音を聞いて何か物騒なものを想像するのは難しい。実際[meadow](草地)と庫哈諾辛山とは無縁ではない。

庫哈諾辛山は所謂日帰り可能な百岳の一座である。健脚であれば南部横貫公路(通称「南横」、省道20号線)脇の登山口から往復で五、六時間といったところか?それでも今は入園・入山証を取得せずに登り運悪くレンジャーに出食わしてしまうと強制的に降ろされてしまう可能性がある。私はこれを一度食らったことがある。

庫哈諾辛山は一週間を要する中央山脈南一段縦走時、最初に踏まれる一座である。天気さえ良ければ、縦走二座目の関山との分岐地点である小高い草地の露営地からの360度の展望は絶品である。

今回のダイヤグラムは「南横三星」と南台湾の雄峰関山を配した。バックは太平洋で、二つの島が浮かぶ。左より、緑島と蘭嶼である。恥ずかしながら、このダイヤグラムを作りながら、そう意識して太平洋側を眺めたことがないことに気付いた。

關山嶺山(71号、3,176m)、塔關山(72号、3,222m)、庫哈諾辛山(88号、3,115m)の三座はいずれも南横沿いに登山口を持つ日帰り可能な百岳だ。百岳登山の入門コースというわけである。因みに、ダイヤグラム中、黄色で示された線は南横西段、省道20号線の高雄県側で、日本時代の関山越嶺警備道をベースに建設されたもので、ダイヤグラムに示された部分はほぼ当時の警備道に沿っていると看做してよい。但し、「大関山トンネル」までで、今は、関山嶺山と塔関山間の最低鞍部にトンネルが掘られ台東県側に抜けるが、当時はこの最低鞍部を警備道は乗り越していた。詳細は私の「台湾古道」ブログの「関山越嶺古道」の記事を参照にして欲しい。尚、ダイヤグラムでは大関山トンネルから更に左側に道路が延びているがこの部分は南横ではなく、今は廃棄された林道である。

昨年8月、台湾全土に壊滅的な打撃を与えたモーラコット台風(8号)以降、最南の玉山国家公園の管理処が置かれた梅山以北の南横はいまだに通行止めと聞いている。更に一昨日の高雄県甲仙を震源とする大地震の追撃である。皮肉かもしれないが、これらの山にひと時の安穏とした時間が訪れているのかもしれない。(了)
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2010年06月19日

俯瞰図:塔関山

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塔関山との最初の出会いは今でもよく覚えている。2001年11月のことである。この頃は、既に台湾に赴任してから優に一年半が過ぎており、しかしながら、私の頭の中では百岳も古道も形成されていない時期であった。

車が「天池」の道路標示に掛かる辺りで前方に、当時の印象としては、奇怪で且つ圧倒的な量感を以て迫ってきた山塊が塔関山と呼ばれることを知ったのは、実はその後である。この時のことについては、既に「台湾古道」ブログの「関山越嶺古道」の第1回目の記事で書き尽くしたので、ここでは繰り返さない。まずはその記事とそこに掲載した写真を閲覧していただきたい。

大関山と呼ばれる山頂を有した山が存在するのかどうかは長い間判らなかった。今は、省道20号線、通称南横の最高点にして、高雄県と台東県の県境でもある大関山トンネルの名としてしか残っていない。それで私は、大関山とは、関山から向陽山を結ぶ天嶮の総称ではないか?と考えていたのだ。台湾のネット上ではよく、「塔関山(大関山)」の説明を目にする。つまり、大関山とは塔関山の旧称という意味だ。日本時代に本当に大関山と呼ばれていたかどうかは、私の手元にある日本時代作製地形図の復刻版には山名そのものの記載が無い。

山容が奇怪なのは実は塔関山より、塔関山山頂からそのまま北へ延び関山北峰(3,429メートル)に至る、ナイフの刃を斜めに渡したような鷹子嘴山(3,262メートル)である。この稜線は素手で渡れそうだが、一般の登山者がこの明らかに危険この上無い尾根を普段越えているのかどうか?疑問だ。私はこれまで二回塔関山山頂に到ったが、この名誉に浴していない。

後、塔関山に関して印象深かったのは、旧正月に登った際、霧氷を目撃したことである。台湾の高山が何たるかをまだ知らない頃だったので、酷く、そして単純に驚いた。台湾で霧氷が見れる!追って、次回以降の記事の中で写真を掲載する積りだ。

南横脇に登山口があり、往復4〜5時間を見ておけばいい。単純に駆け上がるような登山道だが、頂上直下の部分はかなりの急勾配である。登山道が旧関山越嶺警備道と交差しているのだが、今行けば容易に特定出来そうだが、残念ながら過去に登った際は、古道の知識はさらさらなかったのが残念である。

今回のダイアグラムは、塔関山越しに、長春祠と天池を見降ろした俯瞰図にした。長春祠と天池がグーグル・アース上で明瞭に写りこんでいたからだ。最初は逆の俯瞰、つまり天池から塔関山を見上げたダイヤグラムを作って、私の最初の塔関山との出会いのイメージを再現しようとしたが、起伏の強調度を倍近くまで上げても、実際目の当たりにする山塊の大きさ、高度感は再現出来なかったので、没にした。(了)
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2010年10月23日

俯瞰図:関山嶺山

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南横三星の最後に紹介するのは関山嶺山である。

実際は台湾古道ブログの「関山越嶺古道」の中で古道最高点に関し相当のページを費やしたが、この最高点は、関山嶺山への新旧(東西)登山道の出会いであり、塔関山と関山嶺山の最低鞍部でもある。まずは、その中から以下の三つの記事をピックアップしたので写真とその説明だけでも見て欲しい。正直、関山嶺山については言い尽した感がある。

南部横貫公路の最高点、大関山トンネルの東口傍に付いた登山口から片道1.5キロ程程、三〜四時間で往復出来てしまう上に、登山道は常に展望が利いているので天気さえ良ければ実に豪快な景色を堪能しながらの楽しい山行が約束される。

大関山トンネル東西両側入口付近と新登山口
里程標と新旧登山道の出会=関山越嶺古道最高点
関山嶺山頂上への稜線から俯瞰した古道と塔関山への稜線

関山越嶺古道の最高点に達した後は、頂上までの稜線を一気に登り詰める。下から見ていると相当な傾斜感があり頂上までの距離を詰めていくスリルが味わえる。逆に下りは、塔関山、関山へぐんぐん天に向かって登り詰めていくような稜線を正面に見据えることになる。

登山口から古道最高点までの急斜面の登りさえ我慢してしまえば、万人に満足の行く登山が約束されている。あくまで天気が良ければの話だが。

今回の俯瞰図は関山嶺山への登山者を意識したダイヤグラムに仕立てた。大関山トンネル東口が見えている。ここからそのままほぼ垂直に稜線に這い上がり、後は稜線伝いに頂上を目指す。ダイヤグラムに写る向陽山へ連なる稜線を南一段と二段の境界としている人も居る。(了)
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2011年02月26日

俯瞰図:関山

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関山に関しては別ブログ「台湾古道」の「関山越嶺古道」で書き尽くしてしまった。

既にこれまで記事にした南一段の各山岳の俯瞰図には最も最近の関山嶺山のそれを除いてはすべて関山を含んでいるので、今回の記事の為にどういう俯瞰図にしようかと色々思案していたのだが、名案が無い。苦し紛れの一枚が今回の俯瞰図なのだが、関山俯瞰図というより、現代版関山越嶺古道、つまり省道20号線、別称「南部横貫公路」、通称「南横」が中央山脈を越える様を表したものだ。実は、この俯瞰図は「台湾古道」ブログの方に相応しいのだが、未作成であったので、ちゃっかりそのまま古道俯瞰図としても用いる積りだ。

古道ブログの引き写しになるが、現在は関山越嶺古道として人口に膾炙している日本時代開鑿のブヌン族管制の為の旧警備道は現在の高雄県六亀(当時も)と台東県関山(当時は里[土龍])を結ぶ総延長約170キロ。但し、現時点で整備され一般のハイカーに開放されているのは、通称「中之関古道」と呼ばれる約4キロのみ。警備道最高所は、塔関山と関山嶺山を結ぶ稜線の最低鞍部、大関山トンネルの真上だ。当時は、関山越嶺道路などとは呼ばれず、サクサク道路(但し、東段)などと通称されていたようだ。

関山は日本時代から関山である。富士山より百メートルばかり低いだけの標高を持ち、北側に大絶壁を擁する山容は「関」と呼ばれるに相応しい。玉山(にいたかやま)以南の第一の名峰である。今現在、関山はこの名峰自体と、上述した台東県の鎮と町の名前として残る。戦後になってからの地名で、無論、名峰の名を借りたものだ。

これまで俯瞰図、写真等で紹介してきたように仰ぐ方向により関山の山容は千変万化する。何処から眺める関山が美しいか?玉山方向からの眺望と同じ北側からのピラミダル(pyramidal、鹿野忠雄風な形容です)な勇壮な山容が一番だという台湾人は多いかもしれない。(了)

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2011年07月23日

俯瞰図:向陽山

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向陽山は頂上に立つまで非常に難儀した山の一つである。最初の登山の時の経験は印象深い。二回目に登った時は一回目とは対照的に快晴に恵まれ、まるで別世界だった。それだけに何故一回目の山行の際、艱難辛苦したのか全く判然とした。

一回目の山行の際の印象は三つに尽きる―向陽山屋の夜の鼠の運動会。向陽山屋から大崩壊鞍部に登り詰めるまでの土砂降りと強風の中の急登と徘徊。何も見えない頂上と頂上直下の嘉明湖避難小屋での暖。

これらは、追々本文記事の中で詳しく述べる積りだが、ここでは、最初の鼠の運動会に少々言及しておく。

私が子供の頃は、鼠は家中を闊歩していたものだ。特に、我々の机の引き出しは彼らにとっては最高の棲家であり、闇雲に引き出しの中の物を齧られていた。本当にひもじい時(?多分動物学的には正しくない)、私の枕元まで進出してきて私の手の指を齧っていた。

今は、仰々しく「向陽山屋」などと呼称されている。実際専用トイレまで備えた堂々たる山中の休憩基地である。私が最初に行き着いた折は、作業小屋でしかなかった。現代台湾では「工寮」と称する、休憩兼宿泊簡易施設だ。小屋の前はテントが数張り張れる広場になっていた。

トイレは無い。広場脇の竹藪がトイレで、その下を小さな沢が流れていたので、私みたいな野人でも相当な抵抗があった。野の中のトイレに抵抗があったのではない、悪しからず。

小屋の中には多くの登山客が居た。小屋の中には多くの針金が張り巡らされていた。それが何の目的かは私は即座に理解した。食料は針金に吊るし鼠君の襲撃をかわす為である。

実際皆が就寝すると即座に鼠君の運動会の開始である。我々が寝ている上をお構いなしに駆け始めたのである。その数と大胆さに驚いた。この種の鼠の出来るだけ学問的な呼称は何かというと私は判らない。普通の小型鼠なのだが、二十日鼠、或いは、もっと広義に野鼠か?いずれにしても憎めない程に小さな個体だ。

快適さと不愉快さの閾値ということになろうか?現代人にこんな話題を提供しても理解して貰える余地はなさそうなので、この辺で最初の稿を終わりにする。

ところで、今回のダイヤグラムは、登山口から向陽山頂上に至るまでのルートを示すことにした。同登山口から向陽山を経て、三叉山、嘉明湖までの往復、山中一泊二日、南二段の入門コースである(続く)

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2012年01月28日

俯瞰図:三叉山

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向陽山も三叉山も私の手元の『臺灣地形圖新解』には出て来ない。同書に掲載地形図製作時、所謂蕃界の更なる深遠の地故、測量が及ばなかったと思われる。で、当時何と呼ばれていたか判然としない。いずれにしても、今回のダイヤグラムの主は三叉山ではなく、その山麓に佇む嘉明湖である。

三叉山はたおやかな台地と呼ぶに相応しい山である。向陽山の峨々たる山容との対照の妙味が嬉しい。

台湾人のハイカーにとって嘉明湖は必須の到達地である。私自身は山岳中の湖沼に対し特別な思い入れがあるわけではないが、その存在は以前から知っていた。私の俄仕込みの知識は長年、嘉明湖=隕石地形、即ち隕石が衝突してその窪みに出来た湖沼というものであった。それだけで十分興味をそそられた。

嘉明湖のプロフィールは以下の通りである;

台湾湖沼第二位の標高:3,310メートル(最高度は雪山山系翠湖の3,520メートル)
最長径120メートル、最短径80メートル、面積1.9平方キロ
最深6メートル

この湖沼に流れ込む水系は皆無、但し、枯渇することはない。

本湖沼形成については近年研究が進み、従来の隕石衝突説に代わり氷河遺跡説が駘蕩、現実点ではその学術論争は静かなそうな。氷河遺跡とは台湾では氷斗湖と呼んでいる。氷斗とは日本ではカール、圏谷と称している。

残念ながら、今回掲載した「グーグル・アース」では嘉明湖の上空には雲が掛かっている。僅かながらその湖沼面の紺碧が覗いていた。(了)
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2012年06月02日

俯瞰図:玉山前峰

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さて、いよいよ玉山連峰の記事連載をスタートさせる。「いよいよ」と断ったのは、玉山はご存知のように台湾最高峰にして、日本時代は文字通り日本一の山であったからだ。

但し、本ブログの読者に過度の期待を持って貰うのも恐縮なので、まず、冒頭で二つだけコメントしておく。一つは玉山連峰を単純に、(標高の高い順から)主峰、北峰、北々峰、東峰、南峰、西峰、前峰とすると、残念ながら私自身は現在まで主峰、西峰、前峰しか登攀する機会に恵まれていない。主峰、所謂新高山には三度登頂したにも拘わらずだ。もう一つは、私の「台湾古道」ブログ中、「玉山古道」シリーズを通じて私の玉山礼賛は完了している。そのシリーズの中で書き留めた以上のネタはもう余り残されていない。

尤も、「玉山古道」と云っても、当時の全長は阿里山森林鉄道終点沼平駅からタータカ登山口を経て新高山下駐在所(現在の排雲山荘)まで辿り、この後、新高山頂上を目指した。現代の玉山登山道で、当時の登山道と重なるのは、新高山下駐在所から頂上の部分だけというのが私の理解である。明確に判る大きな違いは、当時は西山(玉山西峰)頂上経由で新高山下駐在所へと辿ったことだ。

尚、当時の新高山登山地図が欲しい方は私宛にご遠慮なく申し出ていただきたい。秘密のコピーではなく、台湾では一般に公開されている。この登山地図に纏わる私自身のエピソードも添えてご提供申し上げる次第である。

今回のダイヤグラムは、タータカ登山口、玉山前峰、西峰、排雲山荘、主峰に至る稜線と高度差が判リ易い方面からの俯瞰とした。

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2012年10月06日

俯瞰図:玉山西峰

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私にとっての西山の印象は、二つ。。。一つは、同座山頂に鎮座する純日本式の祠。初めて登頂した2003年4月当時、すぐに日本式祠だとは気付いていたが、深くは考えず。金子さん主宰の『台湾に渡った神々』ブログで詳細を了解した次第。今の私でも、正式には「西山神祠」、昭和9年(1934年)11月14日鎮座の二つの事実で十分なのだが。従って、当時祠そのものをまともに撮影した写真はゼロ。辛うじて、祠が写った写真が数枚あり、その中の一枚が「玉山古道−3」で紹介したもの。

「初めて」登頂した云々と書いたが、以前何処かで書いたように、新高山自体にはこれまで三度登っている。その内二度目に登頂した際、西山にも足を延ばした。排雲山荘一泊二日の玉山登山の場合、初日に排雲山荘に着いた後、空身で西山を往復するのが定番コース。従って、山荘に到着した時点で疲労困憊している大部分の登山者には、往復僅か三時間程度だと言われても、身も心にもそんな余裕は無し。私の場合も、一回目と三回目は同じ憂き目に遇っているわけだ。

このように、今現在は西山登山は、新高山登山のオプション・コースの趣があるが、実はこのオプション・コースこそが、嘗ての新高山登山道、玉山古道の生き残り部分なのだ。というのは、日本時代のコースは西山頂上経由で、今の排雲山荘、当時の新高山下駐在所へと辿っていたからだ。

以上、西山神祠と、西山登山道、今なら以前とは相当違う見方で歩けるのだがということを、恨みがましく綴っている。

さて、二つ目の印象。。。週末登山なら、新高山頂上でのご来光の恩恵に預かろうと、頂上直下の登山道には登山者の行列が出来る。真っ暗な登山道を喘ぎ喘ぎ登りつつ後ろを振り返ると、西山越しに、その先の稜線上に一点灯りが見える。これはちょっとした驚きを私に齎してくれた。阿里山森林鉄道の現在の最高点、祝山駅の灯だと、我々の前を行く登山者の誰かが説明してくれた。今回の俯瞰図は、その「新高山頂上直下で後ろを振り返った時のパノラマ」をテーマにした。対高山と大塔山は阿里山を代表する山、阿里山という山自体は存在しない。以前の記事に書いたことがあるが、「対高」とは「新高山に対する」意味で、現在でも「新高山」の呼称が残存している例。又、「児玉山」は児玉源太郎に因む。大凍山は麓には国家歩道が設えられ南台湾でハイカーに非常に人気のある中級山の一座、西山越しに振り返った時によく目立つ尖峰。

ところで、この西山シリーズ連載を終え、新高山シリーズを書き始める頃までには、玉山群峰すべてを踏破していることを目論んでいた。今年の国慶節は八連休もの豪華版なので、排雲山荘を基地にして三泊四日の山行が組めれば、未登の東山、北山、南山の完登が可能だった。実際は、今現在排雲山荘は改装中で使えず、そこから更に三時間登った南山袂の圓(円)峰小屋を基地にしなければならなかったのだが。結局、体力の問題の前に、籤に当るかどうか?の問題、この時期、無理だろうなあと淡い期待だけは持っていたが、やはりダメだった。日本を始めとする外国からもどんどん新高山を目指す現在、排雲山荘のスペース確保は至難の技になりつつある。(了)

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2013年03月02日

俯瞰図:玉山主峰

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今回の俯瞰図は筆者未踏の北北峰(標高3,833m)まで辿り着いたらどんな俯瞰になるのか?将来何時かはその頂を踏むという誓いと期待を込めて、新高山を中心に東西南北全山が視野に入るように描いた。

さて、玉山主峰、即ち新高山(にいたかやま)については、本ブログでも、筆者の別ブログ「台湾古道」でも書き尽くしてきた感がある。しかも前回はとうとう富士山まで登場願った。そこで、これから数回は2008年1月5日にメルマガ『台湾の声』に掲載された「玉山古道−余話」の全文を掲載することにした。

「玉山古道」とは日本時代から戦後も暫く使われていた新高山登山道のことで、現代の登山道とのコースの違いはこれまで本ブログ中で処々言及して来た。この「余話」とはこれも過去数度引用してきた、黒川直氏作成、昭和8年に社団法人台湾山岳会から発行された五万分の一「新高登山地図」に纏わるエピソードだ。尚、この新高登山地図のコピーは、以前は台湾の複数個所のサイトから自由にダウンロード出来たのだが、最近それらのサイトを確認したらサイト自体は存在するもののどうもダウンロード出来ない模様だ。閲覧を希望する方は、本ブログ主宰者に遠慮なくご連絡頂きたい。

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2013年07月27日

俯瞰図:八通関大山

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私がこのブログの為にアップしている台湾百岳一覧表では、八通関山の序列は第66座、標高は3,245メートルである。私の手元にある市販地図では、まず山名が八通関大山になっており、且つ、3,245メートルの標高を持つのは八通関山西峰である。それで何処で提供されている台湾百岳一覧表が「正式」か?と考え直してみて、中華民国山岳協会の一覧表を確認したら、同じ経建3版のはずなのに、第45座に繰り上がっており、標高も3,335メートルになっていたので、従前のエクセル一覧表に一枚ワークシートを「中華民国山岳協会版」として追加しておいた。という具合に退屈な説明から入らせていただいた。

八通関大山は、玉山(3,952メートル)山脈と峰続きに中央山脈最高峰の秀姑巒山(3,806メートル)の分岐点に位置するだけに目立たない。台湾の歴史とか山岳に興味があれば、八通関は良く耳に入ってくる地名だが、さもなくば、一般の台湾人にも馴染みの無い地名だ。

他方、私にとっての八通関はその響きが大きい。八通関=台湾近代を代表する歴史そのものである。初めて「八通関」なるものをこのブログ記事で目にした読者諸氏には、私の別ブログ『台湾古道』の「八通関古道」段を通読していただければ嬉しい。八通関に対する愛だけが横滑りし、記事そのものは面白くないという方には、私が「台湾古道の巨人」と読んだ手っ取り早く纏めた『日経ギャラリー』の記事が適当だと思う。使われている写真もそうそう悪いものではない。

私は最近、弊別ブログ『台湾古道』の「蘭嶼−12」でこう書いた;

「目立たない特定の山の在り処を確認する最上の方法は其処にとにかく登ってみることである。至極当たり前のことを言っているように聞こえるかもしれないが、鉄則である。一つの山に四方八方から登るわけにはいかないし、大体そんなに登山道が付けられているのは余程低い山である。どの登山道でもよいからとにかく登る。山容というのは富士山みたいな特殊な高峰を例外として、大概は見る場所で山容は千変万化するが、一度頂上に立ってしまえば、不思議と云う他無いが、どの方向から眺めても、その山を特定出来るのだ。」

八通関大山には確かに登った。しかし、当時殆ど土砂降りに近い状態、西峰への稜線を探したりした記憶はあるが、とにかく頂上では三角点の写真が一枚残るのみ。実は未だに混乱状態だ。僅かに、陳有蘭渓南端に覗く三角峰が視認出来るという実体験+知識のみである。

因みにこの三角点は森林三角点、日本時代の遺物である。国土地理院はこの三角点を継承していない―というより、元々陸地測量部の三角点ではなく、台湾総督府殖産局山林課埋設のものである。台湾の山頂でその基点に「森林」の文字を確認したらそれは日本時代の遺構だ。

玉山山脈は、台湾最高峰を擁するにも拘らず、台湾の五大山脈―北から、雪山、中央、玉山、阿里山、海岸―の中では最短と説明される。以前は、玉山山脈は中央山脈と一緒にされていたが、既に日本時代に別山脈と断定されている。その分岐点は実際歩いてみても特定するのは難しいが、八通関はその分岐点上にある。そう、陳有蘭渓南端に覗く三角峰という表現をしたが、同渓の源頭は正に八通関だ。

その八通関の東側に連なる峰が八通関大山、この稜線は、中央山脈最高峰の秀姑巒山に繋がる。

何か同じことを繰り返し記述してきたような気がするが、八通関に対する私の思いは、『台湾古道』の同段に集約されている。従って暫くは八通関か八通関大山か、判別し難い記事が続く可能性がある。(終り)
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2013年11月09日

俯瞰図:郡大山

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これまで登った百岳にもう二度と登る機会が無い(今の筆者自身の年齢を鑑みると必ずやそうなるのではあるが)としたら、どの一座を最も懐かしいと思うか?と問われれば、郡大山を挙げる。

ところで、これまで筆者の百岳、古道両ブログで、郡大山を撮影したもの、或いは郡大山から撮影したものは少なからずそれら写真を以下の記事中で掲載・紹介して来た:

『台湾百岳』について
西巒大山−2
『台湾百岳』について−9:『富士山』
新高山−2
八通関古道−3
玉山古道−2
玉山古道−8
玉山古道−9

厳格な郡大林道入山検査と廃棄された林道上部の酷い路面、真っ暗闇の中、三千メートル稜線を轟轟と鳴り吹き渡る大風を受け流し、雪をたわわに擁した枝を不気味にそして豪快に揺する針葉樹群。私の郡大山の印象はこれら二つに尽きる。時は元旦、その夜の望郷山から郡大山山頂までの文字通り三千メートル級の稜線上での寒くて冷たい半ば惨めな体験は、そこが台湾であるという現実が実に不思議に感じられる時間と空間だった。具体的なイメージは今後の記事で追々紹介して行く予定だ。

今回のダイアグラムは、本ブログの記念す可き第一回目の記事「台湾百岳について」冒頭部の以下の一文のビジュアル化を試みた:

「郡大山は玉山の東側に位置し、陳有蘭渓、即ち八通関古道を間に挟み玉山に向き合う。登山口から頂上までの往復のみを考慮すれば日帰り可能な百岳の一座であるが、登山口に到る林道は厳しい管制が敷かれ入山証無しでは入れない。しかも登山口手前の数キロの林道の崩壊は激しい。」

即ち、陳有蘭渓上から、南側、即ち同渓谷源頭方面を俯瞰した図だ。但し、残念ながら郡大林道の崩壊振りは描き様が無いのだが。陳有蘭渓源頭はダイヤグラム最奥に位置する八通関であり、同渓谷を境に左岸に玉山(新高山)連峰が落ち込み、右岸に、望郷山・郡大山北峰・郡大山と続く三千メートル稜線を擁する山塊が聳える。

今回のダイヤグラムに盛り込んだものはそれだけでは無い。これまで複数回このブログでもコメントしたことがあるが、今は「新高山」の山名は台湾の現代地図からは消滅してしまったが、その名残りが地名、山名として残っている。そんな例を具体的な位置と標高を入れ込んで紹介してあることだ。即ち、開高山と対高山である。

加えて、郡大林道がダイヤグラム上に自動的に表示されるように角度を調整した。「郡大」は山と渓谷の名として残るが、郡大渓沿線は今でも台湾の秘境、曾てはこの渓谷沿いに点在するブヌン族部落を結ぶ警備道が拓かれていた。鹿野忠雄の『山と雲と蕃人と』で頻繁に紹介される中之線警備道がそれであり、現代では、丹大林道、人倫林道、そして郡大林道がその警備道の一部を形成していたはずだ。中之線警備道の最南端は、郡大林道と重なり現在の観高登山サービス・センターに出会い、八通関警備道へと繋がっていた。(終り)

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2014年04月05日

俯瞰図:大水窟山

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私にとっての「大水窟」とは、日本時代開鑿の八通関越嶺警備道の最高点にして、東西段の分岐点である旧大水窟駐在所である。西段に比べて遥かに長蛇な東段はそう易々と踏破は出来ないので、まずは、西段をその東端である大水窟まで辿るというのが、私の中期的な希望であった。

それが、今年2014年の旧正月に叶った。東埔温泉からの入山が許可されたというのが判ってからも、私の今回の山行の主たる目的は、あくまで大水窟駐在所跡までを辿ることであり、それはかなり容易なことだと考えていた。駐在所跡、ネット内を見事なカラー写真で彩る大草原の中の大水窟池とその湖畔に控える山屋、そして大水窟山山頂の位置関係を予め調べることもしなかった。これら三つは簡便なパックだと思い込んで、実際の山行に臨み、まずその前段、つまり大水窟山そのものに取り付く前に大いに困惑し、大水窟山登山そのものに関しては誠に惨めで辛い思いをした。新ためて、筆者の希望通りにそう易々と登らせてくれる台湾百岳は無いということを、今回も痛感せざるを得なかった。

筆者の別ブログ『台湾古道』シリーズでも、同山行を八通関古道西段踏査記録として記事をアップする予定にしている。従って『台湾百岳』ブログでは、大水窟山登頂を中心とした記事で構成する予定だ。

今回作成したダイヤグラムは、観高駐在所跡以降の八通関警備道西段とその駐在所跡の関係を、中央山脈主要山岳位置と組み合わせたものだ。これは『台湾古道』読者の便宜を図るのも目的だ。

ところで、大水窟(だい・すい・くつ)とはどういう意味だろうか?

小学館『デジタル大辞泉』に依ると、「窟」とは;@ほらあな。いわや。「岩窟・石窟・仙窟・洞窟」;A人の集まったすみか。かくれが。「巣窟・魔窟・貧民窟」;B 集まるところ。「理窟」;とある。であれば。一番自然な翻意はBで、字面そのまま、大いに水の集まるところ、ということになり、呆気なく謎が解けたことになるが、実際はそんな単純なものではないかもしれない。追々調べることにする。(終り)

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2014年09月20日

俯瞰図:秀姑巒山

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秀姑巒山に関しては幾つか百科事典的な叙述に換えようかと思う。

まず、地理学的には、台湾中央山脈の最高峰で富士山より高い。日本時代は暫く、現在の玉山山脈も中央山脈の一部と考えられていたが、後、分岐された。この辺りの経緯は何処かで詳しい解説を閲覧したことがあるのだが、今は在り処が判らない。いずれにしても、現場を歩いても、何処で分岐しているのかは俄かには判じ難い。その判じ難さは今回掲載した俯瞰図でも判るが、秀姑巒山とマボラス山は中央山脈に属するが、八通関山は玉山山脈に属する。便宜的には、北は陳有蘭渓、南は荖濃渓で両山脈は東西に分岐される。これまで紹介して来た台湾百岳の中では、八通関大山以外には、西巒山と郡大山が玉山山脈に属する。

今現在は、「秀姑巒」は山名の他は花蓮県豊浜郷港口村から太平洋に注ぐ河川名として残る。この同村の旧名も秀姑巒だった。

「秀姑巒」(しゅう・こ・らん)という三漢字の組み合わせは、何か幻想的な意味合いを想像させる。実際は、原住民語の漢字音訳が変遷して来たものであることは、中文版ウィキペディア「秀姑巒渓」にかなり詳しい解説がある。同じ解説は日本版には無く、又、台湾のサイトでもなかなか行き当らない。安倍明義の『台湾地名研究』にも出て来ない。

そのウィキペディアの解説だと、秀姑巒渓の河口にある「小島」(日本時代の弁天島、今の獅球嶼か?)をアミ族は河口を意味する「芝波蘭」(漢音訳)と呼んでいたが、その後この漢音表記は変遷し、日本時代は「秀姑巒」となり、そのまま使い継がれて来たとある。秀姑巒渓河口は、秀姑漱石と呼ばれる河岸の石灰石群で有名だが、秀姑巒渓自体は今やラフティングのメッカだ。

日本版ウィキペディアを眺めていたら、以下の下りに行き当たったので、そのまま引用する。

「秀姑巒渓は中央山脈から、一旦は平坦な花東縦谷に流れ下り、その末に海岸山脈を貫いて海に至る。この特徴的な流路は、かつては海岸山脈に源を発する小河川だった秀姑巒渓が、浸食の末に海岸山脈を突き抜け、10万年前に花蓮渓の上流部を河川争奪することで形成された。」

川の流れのように♪という叙情的な川のイメージもあろうが、川同志が争奪戦を演じているとイメージを今まで抱いたことがないので、新鮮だった。秀姑巒渓は台湾海岸山脈を横断する唯一の河川―知らなかったなあ、と云うより、海岸山脈自体に余りにも縁が無さ過ぎるという残念さがある。

さて、肝心の山の方に戻ろう。これは恐らく台湾山岳人の間では知られたことだろうが、元々「秀姑巒」という名の山は存在せず、ブヌン語で「マボラス」と呼ばれていたが、陸地測量部(?)が地形図出版の際「誤植」して「秀姑巒」と印刷してしまった。。。と云うような説明がある。では、今現在のマボラス山は元々何と呼ばれていたか?「ウラボン」である。

今回掲載の俯瞰図は、余りにも平凡に思われたが、方向感覚の喪失に長年悩まされていた、観高と対中央山脈最高峰群、そして八通関大山の位置関係を明確にする為に描画したのだが、実は、観高坪のヘリポートから東側を俯瞰した図に過ぎない。「八通関古道西段-16:観高駐在所」掲載記事最下段に附した写真の焼き直しに過ぎない。(終り)
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2015年01月24日

俯瞰図:合歓山

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合歓山、並びに合歓山連峰に関しては、既に別ブログ『台湾古道』の「合歓山越嶺古道」で、その魅力に関し言い尽くしてしまった。それらブログ記事・写真の集大成が『台湾古道』ブログ左メニュー「日経ギャラリー」最終回第4回目の記事である。それで、今後暫く投稿されるこの台湾百岳ブログ記事中では、台湾百岳登山の入門コースたる合歓山と合歓山連峰の紹介は写真中心と為らざるを得ない。というか、たった今書いてるこの時々も、色々な合歓山連峰の視覚的なイメージが想起し収拾が付かない有様、今更何を書けばいんだという投げやりな気分に囚われる。

今回掲載した俯瞰図は、「日経ギャラリー」第4回目記事の最初の見開きページにある北合歓山(合歓山北峰)から真南を俯瞰した写真と南北対象にすることにした。通常は紹介する各山塊を対象にした俯瞰図を作成・掲載して来たが、今回はこのイメージ以外のアイディアが出て来なかった。

今回掲載のダイヤグラムは、従って、合歓山を中心に合歓山連峰を真南から俯瞰した図である。ダイヤグラムの下端は、日本時代開削の「合歓越道路」をほぼ忠実に踏襲した霧社を起点とする省道14号甲線、通称「中横」(中部横貫公路)霧社支線が、蛇行を繰り返しながら標高三千メートルを越えようとして、タロコ国家公園の境界碑を正に越えたその先に広々とした駐車場を従えた冬季救護センター(要は臨時派出所)上空である。嘗ての合歓山駐在所跡地である。ここからの、と言うより、国家公園の境界碑を過ぎた瞬間、眼前に飛び込んで来る合歓山東峰南面の圧倒的なスケールは余りに唐突で、衝撃的だ。。。「台湾古道」ブログ中では恐らく複数回同じことを喋っている。

同ダイヤグラム中央の、今現在武嶺と言われる台湾自動車道最高点が嘗ての第五代台湾総督佐久間左馬太のタロコ征伐に因む佐久間峠で、主峰たる合歓山と東峰の鞍部であり、ここを越えて降り切った場所に、合歓山荘があり、日本時代の石門駐在所跡地である。今回掲載のダイヤグラムも「日経ギャラリー」第4回記事の見開き写真も、主役は合歓山(主峰)と合歓山東峰、それら稜線の鞍部たる台湾自動車道最高点たる武嶺、旧佐久間峠を乗り越す旧合歓越道路、現在の省道14号線甲線、通称中横霧社支線なのである。

三千メートルの稜線には独特の風の声がある。この声が聞こえだすと私の皮膚は泡立つ。それは登山の話をしているのだが、読者は登山の経験が無くとも、この省道14号線甲線をお好みのスピードで走り他のドライバーの邪魔にならない場所に車を止めて耳を傾けるだけでいいのだ。

登山に興味のある弊ブログ読書の為に申し添えておくと、ダイヤグラム上の合歓山四峰は丸二日あれば完登出来る。西合歓山(合歓山西峰)のみが日本第二の高峰南アルプス北岳より低いだけだ。(終わり)
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2015年04月18日

俯瞰図:合歓山東峰

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合歓山東峰はこれまで何度も讃嘆して来たように、合歓山御本尊たる主峰に比べると遥かに見映えがする。同時に、実際登っても、三千メートル峰登山の醍醐味を実に瞬時にして体得出来る。今回のダイヤグラムのグーグル・アースの垂直方向のスケールは+50%に設定し東峰の重量感を誇張したのだが、実際実物の存在感そのものだと自画自賛している。

「瞬時」という表現をしたのは、少なくとも三箇所ある登山口の標高はどれも既に三千メートルを越えていること、もう一つは、何処の登山口を選択しようが、登り始めた瞬間から一切の遮蔽物無しの超豪華眺望が約束されていることである。無論、登山当日快晴に恵まれるという実際はこの登山そのもの―頂上までの登攀時間は一時間も掛からない―より遥かに厳しい条件をクリアすることが条件だが。

今回掲載したダイヤグラムは東側からの俯瞰図である。霧社から中横を登り切り最初に視界に飛び込んで来る東峰雄姿は南面、その後中横は東峰西側の山裾を巻いており、加えて、主峰も東峰の西側にある。更に、中横は北側方面へ下って行く為、合歓山荘横のビジターセンターに車を停め、そこから東峰東面を巻く遊歩道、即ち奇來山方面への登山道を辿らない限り、一般の遊楽客は東面から東峰を仰ぎ見る機会が無い。それ故、東面俯瞰を選んだ。(続く)
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2016年01月16日

俯瞰図:北合歓山

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明けましておめでとうございます。今年も引き続き弊ブログをご贔屓賜るようお願い申し上げます。

筆者姉妹ブログ『台湾古道』は昨年度度々中断はあったが、何とか週刊だけの格好は付けて歳を越せたが、本ブログは半年以上の大きなブランクを残して歳を超す決断をした。以前、本ブログの書き出し後暫くして、二年のブランクと云う大穴を開けた実績があるのだが、何も三週間置きの投稿に拘ることはないかと小心者の筆者自身の気持ちをやっと落ち着けた。それでも今年は従来の三週間に一回投稿のペースは守る積りだ。

何故、半年ものブランクが出来てしまったかは、『台湾古道』の方で詳しく書いたので、その事情はここでは端折る。要は機会が巡り来たり、丁度十年振りに又台湾でサラリーマンとして働き始めたのだが、体と気持ちが付いて行かず、混乱の極みにあったからだ。台湾百岳は凄く近くになったにも拘わらず、だ。

合歓山連峰の三座目は北歓山、或いは合歓山北峰、この稿を起こすに当たり当時撮影した写真のフォルダーを見返して見たら、何と2003年7月である。爾来、中横(中部横貫公路、省道14号線)脇に開いた登山口横を頻繁に往復しながら、北合歓山に実際登ったのは其の時限りなのに、新ためて驚いている。

二度と登りたくない山と云うものは、その標高に拘わらず幾らでもある。北合歓山もその部類の山か?と云うと全く逆である。

高雄からでも早朝に出発、山頂の往復のみであれば、同日中に又高雄に戻って来るのは可能だ。登山口脇に駐車可能、登山口から山頂まで登り二時間弱。。。加えて、その間、背負う風景は台湾山岳の美が凝縮されていると謂うしか無い。頂上と云う目立った突起物は無い。天空と広大な草原(実際は玉山箭竹)がその境界を競うかのような大空間があるだけである。三百六十度の展望という表現があるが、この北合歓山の頂上空間を凌駕するような展望があるだろうか?又、登ろう、それも今年中にという思いが沸き起こって来るのは珍しいことだ。十五年近く、一体私は何を考えていたのだろう。。。

今回掲載した俯瞰図は、中横脇の登山口も含め北合歓山南斜面上空から。登山道が明瞭だ。尚、ビジター・センターの中横越し下に駐車場があるが、当時はここにテントを張るのは許可されていたが、今はどうだろうか?合歓山連峰すべてを短期間で攻略したいのであれば、極上の基地となる。(続く)
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2016年03月19日

俯瞰図:西合歓山

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北合歓山登山口から北合歓山を越えて西合歓山頂上へ至り、そのまま同じ登山道を北合歓山登山口まで戻って来るのは、一日コースである。

事実、2003年当時筆者もそうしたのだが、恐らく早朝五時過ぎには出発したはずで、出発後暫くして撮影した写真の時刻から想像出来る。優に八時前には北合歓山頂上に到着、その後、西合歓山頂上に至ったのが丁度十一時である。これらの時刻から、当時は歩行時間として往復約十時間を目論んでいたと思うのだが、登山口に戻って来た際の時刻を推定出来る写真が残っていない。西合歓山に到着した直後から大雨に見舞われ、登山口に戻るのに必死だったことを思いだす。同行者に依れば雹も降って来たと謂うが、これは記憶に無し。

何が言いたいかと云うと、北合歓山までは天国的な眺望を堪能出来ても、西合歓山まで足を延ばすとなると、相当な覚悟が要ると云うことである。

中華民国山岳協会の百岳路線図から歩行時間を拾うと、以下の通りになる:

登山口→北合歓山(100分)→西合歓山(185分)→北合歓山(215分)→登山口(75分)

つまり、北合歓山の往復だけであれば、三時間程度でOKだが、北合歓山頂上を起点とした西合歓山往復に七時間を要してしまうと云うことである。北合歓山から西合歓山へは、標高差が約三百メートルあるので、基本下りである。

但し、下り一方では無い。そのせいで、目指す西合歓山の頂上が何処なのか?ついぞ判らぬままにひたすら我慢して頂上まで辿り着いた。事実、特徴の無い山容で、通常は一度登頂して仕舞うと、その後は遠方からでも特定出来るものだが、今以て西合歓山を指し示せずにいる。

今回の俯瞰図は、北合歓山頂上上空から真西を俯瞰、西合歓山三角点が、北−西合歓山稜線上の一番最後にあることを示した。次回、再登攀の機会に恵まれた際に、心理的な圧迫を最小限に出来るようにとの願いを込めて。(終わり)

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2018年09月15日

俯瞰図:石門山

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石門山が最も簡便に登頂出来る台湾百岳であるのは事実である。尤も、合歓山(主峰)も実際は頂上に測候所があり、観測者の車に同乗させて貰えば歩かなくて済むのだが。

今年6月の雨中、実は東峰に登る積りだったのだが、合歓山荘(旧石門駐在所)の省道14号甲線(中部横貫公路霧社支線)を隔てて向い側にあった登山道口が封鎖されていた(自然保護の為)のと、その霧雨が雲となり山を覆っていたので、現在松雪楼後方に設けられた正規登山口を確認した後は、これも久々に石門山に向かった。目的は、その登山の簡便さを二つの方法で測ろうと考えたからだ。

まず、同省道脇にある正規登山口から北側にほぼ真っ直ぐに延びる登山道を辿る。登山口に里程標があり、0.7Kの標記あり。その時撮影した写真データで引算すると三等三角点がある石門山頂上まで丁度20分掛かっている。緩やかな登り一方、海抜3,000メートルを越えているので普通の散歩のような具合には行かないが、700メートルを20分は悪くない。次に、頂上から登山口方向へ暫く戻り、登山道が最もフラットになる辺り、右手に同省道が見え出した後、登山道をそのまま右手に外れるとすぐにその自動車道への降り口が付いている。そこから降りてアスファルトを踏む。そこから逆に頂上を目差せば5分程度か?実は、この石門山への正規登山口を使わない不届き登頂の様子は、筆者の別ブログ「合歓山越嶺古道−9」でその様子の写真を掲載しているのだが、筆者自身が登山道を外れ自動車道に降りたのは更に登山口側の土手の段差が最小の部分である。

正規登山口から登山道を辿るだけなら、玉山箭竹に覆われた平坦な稜線からは、何故この丘陵でしかない山が台湾百岳の一座なのか判らない。おまけに稜線の一部はこの稜線と殆ど同じ標高で省道14号甲線が西側を並走している。ところが、頂上の北側は大断崖になっており、この勇壮な景観は、同省道を逆側から走ってくると丁度道路が踊り場のような部分があり、路側が大きく確保してあり車を停めて満喫出来る。ダイヤグラムでは石門山と石門山北峰の鞍部に当たる。つまり、石門山も台湾高山の典型的な地勢―片側が優雅な箭竹スロープ、片側が大断崖―の典型である。

この踊り場の辺りが丁度、日本時代、合歓越嶺道路中岩盤にトンネルが穿たれていた場所で、それ故、石門山と呼ばれる。戦後、現在の中部横貫公路、つまり省道14号線建設の際、爆破された。今は中国国民党風に克難関(大風口)と呼ぶ。ダイヤグラム中の位置は間違いであり、克難関付近から撮影した断崖の様子は、先に紹介したブログ「合歓山越嶺古道−9」で写真を掲載済みなので参考にして欲しい。(終わり)
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2019年03月16日

俯瞰図:奇莱主山北峰

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「台湾五嶽・一奇」の一奇に登ったのは2003年10月、もう十五年も前のことだ。爾来看るだけの山岳で在り続けている。「単攻」(単日、即ち24時間以内に登頂・下山を完了)の対象にもなっている(本当に今でもそんな猛者がいるだろうか?)ので、然程登攀困難な山とは思えない―登山口である旧蒋介石行館松雪楼(海抜3,150b)から先ず下り一方、最低点、黒水塘小屋(2,750b)に至る。この間落差約400b。登りに転じ、通常一泊目サイトとなる成功堡山屋(同2,860b)を経て、北峰頂上(3,607b)迄。この間落差約900b。登山道総延長7.5`。それでも、台湾ハイカーが是非とも登頂したい一座であることは間違い無い。「奇」とは奇異で豪快な山容を想起させるのと掛け合わせたものだろうか?俯瞰図は登山道と行政区画境界線とほぼ一致していることを示したかった。

十五年を経ても尚強烈な残照は三つある;一つは成功堡山屋周辺の排泄事情の惨状(「足の踏み場も無い」−何処かでコメントした記憶あり)、二つ目は通常主北三叉路と呼ばれる北峰方面と奇莱主山方面の分岐点から北峰稜線に至るまでの手掛かり・足掛かりに乏しい急斜面の登り、もう一つは、頂上直下の鎖場。。。

実は筆者の百岳・古道ブログの中で過去かなり奇莱主山に言及している。その中から奇の奇たる由縁にコメントした部分を抜粋し、奇莱主山の最初の投稿を閉じることにする。抜粋コメント中の学生とは成功大学のそれであり、上記の山小屋の命名は、登頂成功の意味では無い。何れも2007年5月の投稿:

それにしても、奇莱主山の標高は既に3,500メートルを越えているのだが、本当に奇莱主山まで開鑿したのだろうか?台湾を代表する山岳を表現するのに「五嶽、三尖、一奇」という言葉が使われる。玉山と雪山は五嶽の雄である。一奇とは奇莱主山のことで、一つしかない特別な山の意味である。台湾の現代登山史上、最多の遭難者を出した山である。尤も奇莱主山は、北峰、主峰、南峰から成り、通常奇莱主山を代表するのは北峰(台湾百岳15号:3,608メートル)である。現在の古道は南峰のはるか南側を通っているので、記念碑上の奇莱主山とは、奇莱主山に続く稜線の意であろう。(台湾古道ブログ『能高越嶺古道−9』より)

ところで、奇莱山で近代台湾登山史上最悪と言われる遭難事件が発生したと書いたが、1970年代に二件発生し、遭難者はいずれも学生、死亡者は合計11人。無論、気候の相異が山岳遭難には大きな影響を与えるが、日本では毎年何人の山岳遭難者が出ているかご存知だろうか?日本人は余りにも山で命を粗末にし過ぎているようであるし、今後中高年の登山は更なるブームになることを考えたらこの傾向は今後も必定だ。(台湾古道ブログ『能高越嶺古道−10』より)(終り)
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2019年06月22日

俯瞰図:奇莱主山

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奇莱主山北峰と奇莱主山の頂上間の距離は約5`程度である。中華民国登山協会ルート図だと北峰頂上から奇莱主山主脈上に設営されている奇莱山屋北側少しばかりの北峰・主山三叉路まで降り切るのに70分、そこから主山頂上まで約2時間の距離である。この間、登山道は東側玉山箭竹の草原と西側断崖の起伏の抑えられた境界上を忠実に辿るので、天気さえ良ければ快適この上無い縦走が約束されるのだが、3,500bを超える稜線上に就き然程には終日上天気に恵まれない。筆者の2003年の登山の際も、午前11時には霧が湧き出し、主山頂上に辿り着いた午後1時には既に展望が遮断されていたことが当時撮影した写真から判る。

ところで「奇莱主山北峰−3」で北峰・主山路線上に合計4箇所の露営地があると紹介した。登山口である松雪楼から数えると、黒水塘小屋、成功山屋、成功一号堡、そして最高所(3,300b)にあるのが奇莱山屋で、この内写真を残す機会があったのは黒水塘小屋と成功一号堡の二箇所のみと書いた。その後、実は主山主脈上の奇莱山屋が写り込んでいる写真が残っていることに気付いたのだが、愕然としたことには稜線登山道の東側に建っていることだった。長年、同避難小屋は登山道西側、しかも稜線より低い場所にあったと云うイメージが焼き付いていたからだ。

奇莱主山は合歓山群峰側から展望すると北峰のように特徴のある山容からは程遠く、丈の低い二等辺三角形を呈している。その存在観が鼓舞されるのは、合歓山より南側の清境農場辺りからの主山主脈の眺望だと思う。今回掲載の俯瞰図は登山に興味の無い面々の方々も幹線車道上の往復時に飛び込んで来る数多の山稜を、霧社・清境農場(上空)方面から望む奇莱主山主脈上の北峰、主山、南峰をイメージしたものだ。今は一部自動車道に取って代わられた台湾を代表する二つの古道を入れ込んでみた。(終り)
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2019年09月14日

俯瞰図:奇莱主山南峰

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奇莱山南峰に登頂したのは然程昔でも無かろうとぼんやり記憶していたのだが、実際は2010年11月、危うく十年になろうとする。

奇莱主山南峰、南華山(能高山北峰:百岳75号、標高3,184b)の百岳二座、その長い鞍部上にある天池(池塘)、その名前を借りたこれら二座の登山基地である天池山荘、加えて、南峰から南側稜線へと辿る深堀山。。。これらの点景は過去弊ブログ『台湾古道』「能高越嶺古道」カテゴリーの中で写真掲載も併せ書き尽くした感がある。『台湾古道』ブログの左メニュートップの検索欄をご利用頂くことをお薦めする。

北峰、主山の順に奇莱主山主脈を辿りながら南峰へ至る方法はあるが、主山と南峰間が音に聞こえた難路、一般のハイカーは、一日目に能高越嶺古道西側入口から入山、能高山、安東軍山方面の登山基地でもある天池山荘まで至り、翌日、奇莱主山南峰と南華山の百岳二座を日帰りで征することが出来るのでハイカーに人気がある。

但し、2015年10月になり漸く改装完了、鳴り物入りで開放された天池山荘(「能高山越嶺古道−22」)は恐らく複数の管理団体が同居している理由で、兎に角猥雑だ。例えば、厨房への出入り口付近は煙草の吸殻が散乱している。天池山荘は台湾の高山山荘の中では玉山下の排雲山荘を含む数少ない食事が供される山荘であるが、このサービスが山を駄目にすると云うのが筆者の持論である。

天池(「能高越嶺古道−6」)とは天池山荘上方の鞍部に池塘があるからだ。天池山荘脇からこの池塘に到るまでの約1時間の登りはきつい。天池は天池山荘−南華山−奇莱主山南峰方面への三叉路である。そこから平坦な登山道を北側に約半時間辿ると南峰と主山方面への三叉路に行き当たる。南峰へはそこから西側へなだらかに見える丘を越すだけで良いように思えたのだが、実際は一時間半程度の苦しい登りだった。南峰南側、日本人の名を冠した稜線続きの三千b峰深堀山(「能高山越嶺古道-25:精英村平静(2)」)があるのだが、南峰登攀時はこの深堀山の名とその由来に関しては無知だった。

天池山荘から奇莱主山南峰まで片道約三時間の登山ルートのイメージは天池、主山・南峰三叉路、南峰、そして稜線続きの深堀山、南華山方面で出来上がる。総じてなだらかなスロープを巡る山行が約束されることをダイヤグラムに盛り込んだ積りだ。尚、当ダイヤグラム中の白線が登山道である。(終り)

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2019年12月21日

俯瞰図:南華山(能高山北峰)

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カテゴリー「奇莱主山南峰」でも書いたが、南華山周辺に関しては、弊ブログ『台湾古道』「能高越嶺古道」で書き尽くしてしまった。特に「能高越嶺古道−5」と「能高越嶺古道−6」では南華山の写真まで掲載した。従って、「南華山」カテゴリーの投稿記事は簡素にしたい。

ところで、南華山登頂は、天池山荘を起点の南廻り、北廻りのどちらのO線を辿っても4時間前後で一回り出来る利便さから、ネット上には山行記録が溢れているが、それらの中で「南華」の由来に触れたものにはなかなか出会えない。それでも気になる人は居るもので、『登山補給站』の中に「山名二三事−百岳山名由来部分補述」なる投稿があり、南華山も取り上げている。但し、附近に「尾上山」とか「深堀山」とか日本語に因む山名があるので、「南華山」も日本語由来かもしれない?とギブアップしている。南華は日本語としては異質で、大陸的である。いずれにしても、由来不明。

筆者にとっては能高山北峰の方が遥かに聞こえが良い。日本時代の「三高」(新高山=玉山、次高山=雪山、能高山)の内、現時点で能高山(主峰)は未踏であるだけに、「それでも能高山の一部には足跡を残したと云う子供染みた自負心を擽られるからだ」とこの投稿原稿を書いていたのだが、去る10月、筆者61歳の誕生日前に、とうとう能高山に登頂する機会に恵まれた。三高登頂完成である。

筆者が2004年11月に南華山を目指した時は、北廻りのO線を選んだ。即ち、奇莱主山南峰を目指した時と同じく、先ず天池迄登り、南峰方面への三叉路を南側に取り頂上に到り、その後は更に南下、南華山と能高山方面稜線の最低鞍部迄降り切り、山荘に戻って来るコースである。

南華山は天池迄登ってしまうと、頂上迄の落差200b弱の玉山竹箭の絨毯の緩やかな稜線を1時間弱辿るだけである。その間遮蔽物皆無の360度の眺望を堪能出来る。この豪華な眺望だけが南華山の「華(はな)」には非ず、二つの人文史を背景にした特異な風景が現出している。これらも既に弊台湾古道ブログ「能高越嶺古道」でかなりのスペースを割いて来たので詳細は繰り返さないが、南華山と能高山主峰方面を結ぶ稜線の最低鞍部を跨ぐ能高越嶺古道と1953年竣工の中央山脈東西(東花蓮県、西南投県)を跨ぐ高圧送電線「電力の万里の長城」」である。今回のダイヤグラムはこの二つの人文景観(但し、送電線は蒋介石の筆に為る「光被八表/利溥民生」碑で代替)と天池山荘を入れ込んだ。(終り)

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2020年02月15日

俯瞰図:能高山

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「台湾五嶽一奇」に加え、「三高」(新高山=玉山主峰、次高山=雪山主峰、能高山)、つまり能高山登攀は、台湾百岳全登攀を夢想する以前に、台湾を代表する山岳として、先ずは登攀を完了させることが、筆者の目標だった。昨年10月に遅まきながら目標到達と相成り、ここに投稿することになった。

以前の投稿「奇莱主山南峰−1」で書いたように、最後に能高山を目指したのは2017年10月の事である。登攀予定日前夜の大雨で即座に断念した。それ以前に同座への登攀を目論んだことがあるはずだが、当時は天池山荘迄辿れば一日で頂上迄往復して、同日中に下山迄可能と気楽に考えていた。実際、当時はその位体力に自信があったのだ。六十が近づくにつれ、この自信はあっさり崩れていく。それでも最後の五十台の歳、計画を組んだ時も、天池山荘からの頂上往復は十時間以上掛かることを知っていながらまだまだ組し易しと考えていた。それから丁度二年、再び能高山登攀の計画を組んだ時は、還暦を迎えた後であり、早い事登っておかないと、機会を失うかもしれないと云う焦りに取り付かれていた。

能高山を越えて、更にもう一座の百岳、能高山南峰迄登攀する日数は確保してあったが、断固として放棄していた。又、能高山だけの登攀にしても、天池山荘との当日往復(所謂単攻)以外に、能高山を越え南峰との稜線上で一泊、翌日再び能高山を越え天池山荘迄戻ると云う二日コースもガイドに提案された。一日の歩行時間を短くする為であるが、このオプションも断固退けた。山中一泊分の荷物を担いで能高山を越える?とんでもない!哀しいかな、以上が筆者の現在の心理状態なのである。

結局、十三時間半を費やした。ガイドに依ると、通常の往復時間だとの事。中華民国登山協会ルート図だと10.6時間(歩行時間のみ)、長年筆者の頭にこびり付いていたのは後者の数字、しかも若い時分は休憩を含めてでも十時間内で往復可能と考えていた。

能高山の山容はこのブログでも弊別ブログ「台湾古道」でも相当数の写真を紹介して来た。尖峰である。ところが、Google Earthで俯瞰図を作ると、この尖峰のイメージが出来上がらなかった。仕方が無いので、スケールを200%とした。南華山から能高山山頂の間の稜線上の「障害物」は一に卡賀爾山、二に岩である。又、能高山南東側には常に奇怪な能高山南峰が鎮座している。この山塊が目前に迫った時、つくづくその峰に登攀を試みると云う暴挙に出ずに良かったと思うことだった。(終り)

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2020年12月05日

俯瞰図:屏風山

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台湾百岳の中で、屏風山は「一度登ればもう二度と登りたくない」一座の代名詞である。それを2012年10月、定番通り三日間掛けて登り切った。それ程昔の話でも無いと思い込んでいたが、もう八年も経ってしまった。南大武山の紹介記事の中で述べたように、台湾にて登山を再開した時、登山中にメモを取ることはしなくなった。それでも屏風山の場合、下山後暫くしてからだったか、或いは数年後だったか、登山の印象をメモしている。それらのメモを数回の投稿に分けて小出しに紹介する方法もあろうが、屏風山の最初の紹介である本投稿の追記で一気に掲載することにした。

それにしてでもである。この項の最下段に標準的と思われる時間軸を抜き書きしておいたが、頂上往復の総時間が19時間も掛かるのである。休憩、食事の時間を足し込めば優に20時間を超える山行なのだが、何故か、伝統的にと思われる位にこの屏風山は単攻の対象とされて来た。この場合の「単」とは一日のことだが、12時間に非ず、24時間である。これは今でも筆者には解せない。

屏風山は奇莱主山主稜から北側稜線続き、合歓山群峰と対峙し、文字通り屏風の如く立ちはだかる。下に掲載した筆者が辿ったコースが屏風山への唯一の登山ルートと思い込んでいたが、このカテゴリーを書き起こすに当たりネットを渉猟していたら、実は2コース、新旧登山道があることが判った。これらは鉄線橋を過ぎた後に露営地があるが、この露営地附近に分岐点があり、旧コースは頂上に繫がる尾根に直接取り付き、他方新コースは、金鉱跡を経由し南側の尾根に取り付き、最後は頂上稜線南側に往き当たる。筆者が往復したのは新コースであるが、新旧両コースを辿る(所謂O線)向きもある。新コースが遥かに長いのだが、何故わざわざ長いコースを開鑿したのかはその内誰かに聞いてみる積りだ。

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