2015年05月09日
合歓山東峰−1
【写真説明】同じ言い訳を繰り返すことにまるが、合歓山に関する今後の記事も淡々と写真を並べて行くに留めることにする。又、掲載写真の一部は特に弊『台湾古道』ブログの「合歓山越嶺古道」シリーズで掲載した写真と類似していることも断っておく。今回の掲載写真は、主峰より遥かに見映えのする東峰という形容を前回の紹介でした限りに於いては、全く貧しい限り、筆者のカメラ・ワークの限界だ。左写真は、昆陽冬季救護センター(旧合歓山駐在所跡)から望む東峰南面、2012年10月撮影。中央写真は、武嶺(旧佐久間峠)展望台越しに臨む東峰西面、その頂上は指呼の間にあり、頂上まで踏み跡もよく見えている、左写真と同一時に撮影。右写真は、北合歓山(北峰)登山道途中から望む東峰北面(同写真最奥)、2003年7月撮影、東峰下方で崩壊部を露出させているのは、石門山(百岳70号、3,237メートル)同写真右側の大きな塊は主峰、又、写真左中央に写る建築物は、合歓山ビジターセンター。「合歓山越嶺古道−2」掲載写真とほぼ同地点から撮影。(続く)
2015年05月30日
合歓山東峰−2
【写真説明】今回は実際東峰を登ることにしよう。東峰頂上への登山道は複数本あるが、最も判り易い登山口は、合歓山荘(旧石門駐在所跡)の中横を隔てて真向いで、登山口表示板が立つ。それが左写真である。往復九十分、登り一時間、下り半時間という塩梅だから、登山経験が無くとも往復可能、台湾の一つの天国の展望台に立てるのだ。中央写真は、「合歓山越嶺古道−9」に掲載した写真の焼き直しである。この正規登山口からの登山道が贅沢な理由は、台湾を代表する氷河遺跡である、合歓尖山(3,217メートル)、台湾で唯一のホルン(氷食尖峰)を背負いながらの登山になることだ。右写真は頂上山塊。下掲写真は、北合歓山をバックにした頂上を示す石積、東峰は基点無し。(続く)
2015年06月20日
合歓山東峰−3
【写真説明】今回は些か百科事典的なコメントになる。東峰に登頂した際、筆者がその可憐さに甚く心動かされたのは、今回掲載した写真に写る花である。その後その花の名前を調べた上で暫くは覚えていたはずだが、この記事を起こすに当たりすっかり失念しており、新たに調べた次第。日本の高山植物に通じておられる方は、直ぐにこれがマツムシソウ(松虫草)であることが判る筈だ。ウィキペディア日本語版だと、松虫草は日本固有種という表現がしてあるので誤解しがちだが、マツムシソウ属とすると世界に七十種程度存在、日本のものは台湾を含む中国大陸南部から北上したものらしい。筆者のパソコンだと「まつむしそう」とタイプしても「松虫草」としか変換されないが、日本のネット上で見ていると、松虫草と「山羅葡」が併記されている。台湾種の松虫草、つまり写真に写る主は台湾では今は「玉山山羅葡」と表記されるが、日本語ではニイタカマツムシソウ、学名に「Hayata」、即ち、早田文蔵の名が冠せられているので、台湾現代表記より相応しい。因みに「羅葡」とは大根(ダイコン)のことだ。更に、大根の古名は春の七草の一つ「スズシロ(清白)」、筆者のパソコンは「すずしろ」とタイプし変換すると「清白」ではなく「羅葡」が出て来る。(終わり)
2018年11月10日
合歓山東峰−4
【写真説明】今回から「一奇」の投稿を開始する予定だったが、合歓山連峰から離れる前に、去る9月に約15年振り(初回は2003年8月)に同峰に登る機会があり、その際に珍しい物を目撃したので紹介することにした。珍しい物とは、嘗て台湾唯一のスキー場が同峰東斜面にあり、その遺跡たるリフトの残骸である。このスキー場が営業を停止したのは、東峰登山道途中にある林務局の案内板に依ると「民国74年」、つまり1985年、もう三十余年前となる。では営業を開始したのは?筆者はまだ探し当てられずにいる。
三十年もそのままに雨風に晒されたままにして置かれると、その物は廃墟の美を輝かし始める−そんな事を筆者の「台湾古道」ブログの何処かで書いた記憶がある。合歓山スキー場のリフトの赤錆びた残骸はもう十分にレジャー古蹟ならぬ産業古蹟としての確固たる地位を築こうとしているのは、今や一本に絞られた、松雪楼(旧蒋介石行館)後方に設けられた東峰登山口から登り始め、廃棄されたリフトを、東峰斜面全体が「玉山箭竹復育区」に指定された緑の海原の中に見出した時に感得出来るのである。
登山口の松雪楼の海抜が3,150メートル、合歓山東峰山頂が3,420メートル、登山道の総延長が約1キロ、リフトの最上段は登山道500メートル付近に位置するので、単純計算して、リフトの海抜は3,200メートル前後か?少なくとも日本には存在しない。
最後に、もう一言―筆者自身は台湾での山登りを始めた頃から、嘗て東峰東斜面に台湾唯一のスキー場があり、既に閉鎖されている知見はあった。では何故、当時のリフトが現存していることを知らなかったか?理由は単純で、初回東峰登攀の際に、北側登山口を選択したからだ。当時は、東側登山口に加え、北側(合歓山荘向い側)と南西側(武嶺起点)から登られていたが、現在は玉山箭竹保護の為、東側登山口以外は閉鎖されている。(終り)