2023年08月12日
品田山−5(布秀蘭山・素密達山・穆特勒布山・雲達卡山・凱蘭特崑山)
【写真説明】池有山東側鞍部新達小屋を出発し、品田山を越え西進を継続、先ず大覇尖山より南下して来る稜線と出会う。その後、布秀蘭山、素密達山、最期に素密達断崖を降下し素密達山屋に至り二泊目。上段左写真は品田山と布秀蘭山の鞍部にある露営地より聖稜線西進方向を望む:布秀蘭山、素密達山、穆特勒布山の順。中央写真に写る指導標は、右側大覇尖山稜線方面との出会い。右写真は、布秀蘭山山頂より振り返った品田山東壁。品田山より離れるに連れ逆に断層面の豪快さが増すような印象を受ける。品田山断崖をカメラで追い掛けるだけでも大作品が出現するだろう。先に二日目の終点、素密達断崖降下の様子とその後の素密達山屋への行進を掲載した。三日目のマイルストーンは百岳の雪山北峰、下山後は雪北山屋で三泊目。
今回の記事タイトルには六座を列記したが、この二日間で走破した「無名峰」(但し、凱蘭特崑山のみは四日目登頂)、全座が3,500b前後の標高を有する。台湾百岳に含まれるピークはゼロ、加えて三角点も埋定されていない。この辺りが台湾山岳の凄みだ。これらの山名だが、日本人ハイカーは恐らくどう発音すれば良いのか全くお手上げだと思う。台湾人ハイカーもただ各漢字を北京語読みしているだけだ。漢字を見る限りに於いては、各山名何かしら意味深淵な由来があるように考えてしまう方もいるかもしれない。筆者の理解では、特別な意味は無し、原住民族タイヤル語の漢音表記なのだ―以上の事情は以前に読者の方々に披露したことがある。では、日本時代はどう表記されていたのか?(或いはどう呼称されていたか?)に関し、台湾サイトを渉猟すると以下の報告書に当たった:
臺灣大學圖書館蔵、『臺灣山岳』第7號
佐々木舜一「大覇尖山及次高山連峰縦走記」
昭和八年十一月(1933年11月20日)発刊
この報告書(実際は当時外販されていた山岳雑誌だと思う)中にタイヤル語ベースの山岳名が地図上でカタカナ表記で記載されているので、それらを筆者が歩いた同じコース順で整理したものが以下である。先頭の記号の意味は;〇(筆者の縦走路)、△(筆者の宿泊場所、×(筆者の縦走路外)。同誌の地図上の記載は「バパラ」(或いは「ババヲ」かもしれない、いずれにしても当時の印刷技術の限界か?)になっているのだが、同誌本文中の表記は「バボー」である。「山」の意味か?
〇バパラ(或いはバボー)・タラガユン(品田山、3,524b、100岳)
〇バパラ・ブシユラン(布秀蘭山、3,438b、150岳)
〇?(素密達山、3,466b、150岳)
△素密達山屋
×バパラ・ムトロツプ(穆特勒布山、3,626b、150岳)
〇?(雲達卡山、3,613b)
〇次高北山(雪山北峰、3,703b、100岳)
△雪北山屋
〇?(凱蘭特崑山北峰、3,705b)
〇バパラ・カランタツクン(凱蘭特崑山、3,731b、150岳)
〇?(北稜角、3,880b)
〇次高山(雪山主峰、3,886b、100岳)
このダイヤグラムを作り乍ら、何度も自問自答を繰り返していたのは、当時果たして我々はムトロツプ(穆特勒布)山(前回記事に掲載の右側写真、同写真右側手前の尖峰)には本当に登攀したのかどうか?筆者の結論は、多分登っていないようだ。もう一つ追加すれば、三日目の最後は素密達断崖を降り切り山小屋迄辿ったと思い込んでいたが、あの断崖は本当に素密達断崖だったのか?以上約十年後になって改めて問い直した疑問である。(続く)
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