▲[←俯瞰図はココをクリック]
聖稜線と武稜四秀を組み併せてみたが、やはり伝統的な手法通り百岳各々一座に対し一枚の俯瞰図を充てることにした。さもなくば各一座の特殊性を視覚化するのが難しいと云う単純な理由だ。筆者にとり桃山の特殊性を思い付くままに列記して今回の稿を終わらせることにしたい。
1) 武稜四秀四座の標準日程は山中二泊三日だと思う。これを一泊で切り詰めて完登してしまう個人、パーティーもあるようだ。詰まり一回の山行で完結して仕舞える雪山山脈のモデルコースである。筆者は四座完登に三回の山行と三年八カ月を要した。特別な理由は無い。運が悪かっただけと言えようか。最初は2011年2月、武稜山荘から桃山(+喀拉業山)迄の往復行である。単純な往復行にした理由は思い出せない。二回目は翌年2012年1月、池有山と品田山を目指したが、積雪の為品田山登攀は断念した。断念したのが正しかったと理解したのは三回目の挑戦、2014年10月のO線コースを辿った時だ。いずれにせよ、筆者自身の武稜四秀に対する憶いは、極めて標準コースであるにも拘わらず以上のように非常に長い時間を掛けたと云う事だ。
2) 初めてプロの登山ガイド・ポーターを雇った山行に相成り、この後台湾百岳のみならず主要登山はお世話になることになる。当時53歳ぐらいか、まだまだ背負えていたと思うが、その後五年も経たない内にガイドは必須と自覚せざるを得ない体力状況が現出した。
3) 桃山登山以前に二回、雪山主峰定番コースは体験していた。それらを含めてこれまで雪山山脈山系登山の中で最も恵まれた天候の中の山行になった。それを証明するのが、当時デジカメで撮影した写真群である。当時はかなり低級なデジカメを持参、撮影していたはずだが、解像度の低い割には非常に良く撮れていると思われる理由は、当時のキャノンの技術力に負う所が大きいと今でも思う。今後そのような写真を中心に投稿を纏めたいと思う。
4) 当時はまだ中国からのツアーは大流行だったはずだ。武稜農場にも連日多くの中国人観光客の為に仕立てられた観光バスで賑わっていたはずだ。正確に場所は覚えていないが、既に防火道終点は大いに過ぎていたと思う。明らかに中国人観光客と判る出で立ち、背広の正装からネクタイを外しただけ、革靴を履いたままでそこまで登って来ている男性一人を目撃した。もし彼が頂上を目指していたのであれば、行き着いたであろうし、そういう中国人農民(と私が推測した)の逞しさが滲みだしているのだ。当時筆者は中国で職を得ていた。
5) 「防火道路」―日本では防火帯と言うはずだ。この後の雪山山脈山系登山で思い知らされるのだが、筆者自身過去の経験が無く、かくも美しき且つ無機質の防火道路、即ち登山道を辿る精神、肉体双方の大いなる消耗。。。今回のダイヤグラムに防火道路の出入口の標高を入れ込んだのは、一種の大いなるカルチャーショックを受けたからだ。(続く)
2022年09月10日
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