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俯瞰図そのものは審馬陣山に特化したものでは無く、台湾中央山脈南一段の帝王、南湖大山主峰への伝統的な登山道を俯瞰したものである。従って、今回のナレーションも審馬陣山に焦点を当てたものでは無く南湖大山系全体の印象を記したいと思う。幸いなことに最近メルマガ『台湾の声』に投稿した記事(「台湾の桃源郷−南湖大山とシャクナゲ」2021年5月16日投稿)の中に適当なものがあったのでそのまま抜粋してスタートさせることにした。ひょっとしたら筆者の台湾中央山脈行はこれが最後になるかもしれない:
<ナンコシャクナゲ>
台湾の桃源郷は何処かと問われれば、筆者は南湖大山と即答する。氷河に削り出された南湖大山群峰とそれらに取り囲まれた壮大な谷を擁する天国的な大パノラマと撓わ(たわわ)に咲き誇るナンコシャクナゲの点景の取り合せの妙は感動的である。自然の斧で切鑿された剥き出しの荒々しさと広大な谷底の静謐が同居している。それ故、台湾人ハイカーの間では、台湾山岳の王者とか帝王と呼ばれる。南湖大山登頂の機会はこれまで二回あるが、初回時は丁度ナンコシャクナゲの開花期に重なったのはこの上なく幸運だったと憶う。
台湾人には使い辛いらしく余り流通していないが、2千元札の裏のデザインは、バックに中央尖山(標高3,705メートル)を従えた南湖大山と台湾の国宝魚と呼ばれる「タイワンマス」(台湾の正式名称は「台灣櫻花鉤吻鮭」、サケ科)の組み合わせになっている。南湖大山の図柄は一番手前に半円球状の低木群が描き込まれているが、ナンコシャクナゲの群生である。
ニイタカシャクナゲとナンコシャクナゲは花弁を比較して見分けるのは難しい。大きな違いはナンコシャクナゲの葉裏は赤褐色の毛に覆われておりコーヒー色に見えることである。又、ニイタカシャクナゲが山系を問わず広く分布しているのに対し、ナンコシャクナゲの場合、分布の中心が南湖大山系の一部地域に限定されていることである。しかも、南湖大山系に限ってもニイタカシャクナゲの生育域が遥かに広いのではないかと思う。更に、ナンコシャクナゲは低木で、丈が2メートルを越えるのは珍しいとされる。
中央山脈と雪山山脈の鞍部、宜蘭県と台中市の境界に位置する思源唖口(「唖口」は鞍部(あんぶ)の意味)に南湖大山登山口があり、ハイカーは南湖大山群峰の登山ベースとなる南湖山荘を目指す。その間の距離は20キロ強、落差は1,800メートル弱、歩行13時間前後のコースだ。この間に一つの避難小屋と二つの山小屋がある。往路の最高点である北峰(標高3,772メートル)頂上まで辿り着いた時に先ず目に飛び込んで来るのは、右手(西側)に鎮座する主峰の大山塊、その左側(東側)山裾に沿い真っ直ぐに延びる谷底の平坦地、そして足元の登山道が旧斜面を、その谷底にある南湖山荘に向かい急降下する様である。通称「下圏谷」である。全く同じ構造の地形が更に左手にもあり、平坦地の標高が僅かに高いので「上圏谷」と呼ばれている。上圏谷の南側突端が東峰(標高3,632メートル)で、下圏谷の北側突端である北峰とこの東峰を結ぶこれら二条の谷の差し渡しは約1,300メートルもある。これらを氷食地形(氷河遺跡)として特定したのは鹿野忠雄である。圏谷(カール)とは山頂付近に発達した氷河が、自重で岩石を削ったり剥ぎ取ったりして形成された半椀状の凹地を指す。
鹿野忠雄が昭和7年(1932年)『地理學評論』上に発表した小論文「臺灣高山地域に於ける二三の地形學的觀察」、その後に続く二編の論文「臺灣南湖大山山彙に於ける氷蝕地形に就いて」(昭和9年・1934年)と「臺灣次高山に於ける氷河地形の研究」(昭和10年・1935年)とは、当時の日本学術界に一大衝撃を齎(もたら)したと台湾では謂われる。北回帰線が台湾島のほぼ真中を横切り、緯度上は南半分が熱帯に属する地域で、一般人には氷雪とは無縁と思われていた地に氷河遺跡が存在するという学説は確かに大きなインパクトがあったことは容易に想像できる。これらの論文の中で、鹿野は雪山に32箇所、南湖大山に12箇所の圏谷を特定している。
戦後も台湾では鹿野の学説の信憑性を巡り研究・検証・論争は続けられ2000年初頭に漸く学会のコンセンサスが得られたそうだ。論争の焦点は鹿野が特定した圏谷が本当に氷食地形かということと、それら圏谷の形成過程だったようだ。今現在、圏谷状の地形は氷河運動のみならず他の地理的な運動でも形成され得るという意味で、台湾では「冰斗」と言い換えられている。「冰」と氷は異体字の関係であり、「斗」は「ひしゃく」の意味だ。又、南湖大山を目指すハイカーが一様に目の当たりにする前述のパノラマを鹿野は4個の圏谷(上下圏谷の各々半分)として特定したが、今現在は上下圏谷の南側(ハイカーからは奥)2個は、「U字形谷」に修正されている。U字形谷(或いはU字谷)は圏谷を形成した氷河が下方に流動しながら削り出したU字形の谷を指す。とは言え、今日でもハイカーの間の会話では、鹿野の学説発表以来既に九十年近く使われて来た圏谷の呼称が支配的だ。加えて、玉山を始めとするその他の山系にも続々と氷河遺跡が特定されてきたのも戦後の台湾人に依る研究成果である。(了)
2021年09月25日
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