2020年08月29日
北大武山−10
【写真説明】檜谷山荘の前身は日本時代迄遡れると謂う知見はあったが、具体的にその前身が何であったか?確かな由来は知らなかった。詳細は本文を参照にして欲しい。その日本時代の名残りと思われる物を何箇所かここで紹介しておく。左写真は山荘の玄関口から最も奥後方の石垣。中央写真は山荘を支える基壇部の石積み。右写真は山荘より低い場所にある様々な石積み、これらの中に本当に優に七十年を越えた日本時代の遺物があるかどうか?保証の限りでは無いのだが。
檜谷山荘の前身は日本時代の駐在所だと漠然と考えていたが、今回山荘正面出入口に林務局に依り建てられた三連の案内板「パイワン族五年祭」、「檜谷山荘史話」、「檜谷山荘使用須知」の内、真ん中のそれを読むと、筆者の予想とは大分異なっていた。以下、その紹介文全訳である:
嘗て紅檜(ベニヒ)の大木に抱かれていた檜谷山荘は、北大武山の登山客に対し休憩所と宿泊所を提供し、気を養い、頂上登攀への更なる挑戦を可能にしてくれる。今日の北大武山国家歩道は、元々は現地原住民の狩猟道であり、昭和15年(1940年)、日本人が台湾五嶽の登山道を探査している途中、偶々到達した地であり、当時は「檜山」と呼ばれていた。昭和19年(1944年)、登山道を開鑿し、稜線上に神社(筆者註:大武祠)を建立する為に、ここ檜山に施工所を設け工事の管理監督を行ったが、それが檜谷山荘の前身である。神社が完成した後、日本人登山客に宿泊所を提供する為に、附近の紅檜を伐採して宿泊施設を設営した。戦後日本が退出した後、泰武村村民は宿泊施設を解体、その木材を学校建築に充てた。民国56年(1967年)、林務局は同地に避難小屋を再建、正式名称を「檜谷山荘」とした。民国90年(2001年)、屏東林区管理処は、同山荘に新たに補修・改装を加え、現在の堂々たる山小屋へと変身、単なる避難小屋としての機能だけでは無く、同時に、清潔な水源と衛生設備を有し、凡そ60人の宿泊が可能、北大武山登山客の便利を図っている。
最後に檜谷山荘並びに周辺のパノラマ写真を添付しておく。■をクリックして欲しい:
■ 檜谷山荘玄関口;
■ 檜谷山荘玄関口内側;
■ 上掲左写真の周辺を含むパノラマ写真;
■ 上掲中央写真より下部に連なる階段を含むパノラマ写真;
■ 檜谷山荘下に設けられた露営地、ここも今は予約制である。
(続く)
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