2018年11月24日

「台湾百岳」について−10:「元標」

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【写真説明】本投稿は弊ブログ「台湾古道」の2018年10月06日付け「八通関古道竹山段−13」で投稿したものの再録である。本来、当該ブログの投稿記事として相応しいものと考えたからだ。左写真は竹山市街地内の南投県政府警察署竹山分局と竹山郵便局が隣接する前山路(同写真正面)と集山路(同写真左側)の公差点に立つ時計台。その袂に、日本時代の地形図製作の為の測量原点「元標」(中央写真)が保存され、二段抜きの案内板(右写真)が立つ。同写真上に「100余年前(明治33年)の日本人は、どの様にして三角点を利用し山頂の海抜を算出したのか?」と読める。「元標」には「標高五百十四尺」と刻まれている。以上、2016年7月撮影。

鹿谷→凍頂→麒麟潭→開山廟→麒麟山→鳳凰山寺→鳳凰谷鳥園→萬年亨衢碑から先の清代開鑿八通関古道跡を辿る旅は、今後そう云う機会があった際に書き足すとして、一旦開鑿起点の竹山市街地に戻ろうと思う。筆者にとり竹山市街地は、過去は只の通過地点に過ぎなかったが、歩き回って看ると日本時代の物が実に多く残っている。そんな中から所謂掘り出し物を数回に渡り紹介する。

最大の掘り出し物は、猥雑(古い街だけに道が狭く、それだけに異常に活気があるの意)な市街地の中心を跨ぐ、既に紹介済みの前山路と集山路が公差する三叉路中央の円状の分離帯に時計塔があり、その袂に、「元標」、古井戸(筆者は迂闊にも見逃した)とこれらの古蹟を紹介した案内板がある。「元標」とは筆者の解釈が正しければ、「測量原点標示」と読み替えても良いのではないかと思う。もっと簡単に言えば、日本時代の台湾地形図製作の為の測量原点である。この碑に往き当たった時は非常に興奮した。今回の投稿では、大正12年(1923年)、大日本帝国陸軍参謀本部所属陸地測量部に依り埋定された「元標」横に立つ案内板拙訳(原文中文、一部省略)を供することにする。尚、案内板文言中には解説を要する事件名とか矛盾する数字とか散見するが、原文の忠実な和訳に留める。

「元標」紹介訳文を掲載する前に、少し脱線して(と言っても全く関係の無い話でも無い)、「台湾地理中心」に触れておく。竹山と同じ南投県埔里鎮埔里市街地内にある虎子山頂上(海抜556メートル)に「台湾地理中心」があり、山全体が公園になっているので地元住民の憩いの場であり、同時に埔里の観光スポットの一つでもある。地理中心と云う呼称は恐らく台湾人の殆どが知っていると思う。筆者もかなり以前(2002年)に足を運んだことがあるのだが、当時何を以て中心と定義とするのか?関心が無かった。

「元標」に遭遇した際直ぐに想起したのは地理中心の事だった。この記事を起こすに当たり、改めてネットを渉猟してみた。「台湾地理中心」とは「台湾経緯度原点」のことであり、明治39年(1906年)、虎子山頂上に一等三角点(下掲写真参照:2002年1月撮影)を埋定、東京天文台技師橋本昌矣が経緯度を測定、爾来1999年に新国家座標システムが採用されるまでの、実に92年間に渡り台湾の経緯度原点だった。以上はウィキペディア中文版(日本語版は無し)に依ったのだが、台湾ネット上の「地理中心」観光案内では日本時代との関わり合いに触れたものは極僅かである。

では、以下竹山の「元標」案内板の全訳である。 [ ]内は筆者に依る註。案内板で使われている文字の色に倣った。又、年号等の算用数字も適宜筆者の方で変更した。前述の埔里「台湾地理中心」の紹介と重なる部分があることに気付かれると思う。

[「元標」紹介]:
日本人は竹山・鹿谷地区を管理する為に、1905年[明治38年]竹山街役場を、1920年[大正9年]には郡役所(現在の鎮公所に相当)を今日の竹山郵便局の地に設置した。竹山郡役所の管轄は警察、税務、戸籍を有し、竹山鎮の政治・経済・軍事の中心であった。加えて、1912年[大正元年]には丁勇[「隘勇」と「隘丁」の合成語か?]を指揮し、竹林事件の抗日住民の中心地を追撃、所謂「林圮埔事件」或いは劉乾事件を鎮圧した。

地政基準を確率する為、日本人は各種儀器を導入、当地竹山と海面との高度差を測量、大正十二年(1923年)十二月一日「元標」碑を埋設、この元標を測量基準点とした。元標の設立は日本人の台湾科学植民統治の一環であり、この種の植民施策が既存の習慣に対応しながら統治を強化するものであり、台湾全土の資源の完全な調査を可能にし、且つ専門家に依る研究分析の基礎を為した。

元標の脇に一基の古井戸があるが、住民が日常利用するものでは無く、郡役所が非常事態に瀕した際の救急用の井戸であり、珍珠港事件後に爆発に見舞われた際、消火活動に重要な役割を演じた。その後測量技術は日進月歩、地理情報システム(GIS)が開発されるに及び、元標はひっそりと草葉の陰に身を潜めることになり、井戸の方も蓋が被され火急の際に使用されることも無くなった。

元標の後方下にある下厝巷の方へ進むと、日頃非常に活気のある伝統的な商店街である頂横街に至る。街中には伝統的な竹を利用した住居が残り、竹山市中心の一街路である。元標後方の冬筍市場は、台湾では極めて珍しい冬筍市場であり、元標は現代と伝統生活の間の変遷に身を置きながら、竹山文化資産の多様性の生き証人である。

<関連クイズ>元標には「514尺」と刻まれていますが、何故でしょう?竹山の海抜は何メートルですか?(1尺=30.3センチ)

[歴史脈絡]:
<壹> 1,000年前の人は、どの様にして海上の島の高さを算出したのでしょうか? [以下省略]

<弍> 100余年前(明治33年)の日本人は、どの様にして三角点を利用し山頂の海抜を算出したのでしょうか?
1.日本時代、台湾の基本地形図の製作は、三角測量、水準測量、地形測量、製図のステップを踏んだ。台湾の三角測量は、明治33年(1900年)〜同37年(1904年)、番地[原住民族居住地]以外の台湾全土に凡そ一千基の三等三角点と二千基の四等三角点を埋定した。

2.三角測量の後は、必ず水準測量を実施する。まず、水準原点の設置が必要(基隆港水準が基点)、同時に水準原点に依って一系列の水準点を設置、水準点と各種三角点を組み合わせ分別しながら海抜高度を測定して行く。最終的に地表の高低起伏が彰かな絵図と成る。[以下省略]

<参> あなたが立っている左側に時計塔がありますが、どのようにして上述の二つの方法(三角測量・水準測量)を用いて時計塔の高さを算出出来るでしょうか?
(続く)

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posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☀| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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