2014年11月01日
秀姑巒山−2
【写真説明】白洋金礦山屋から中央山脈稜線上鞍部に為る秀姑坪までは、写真で見る薄く割けた岩板の急斜面である。本当は、ここで白洋金礦山屋とその下を流れる鮮烈な沢の写真でも挿入するのが常套手段だろうが、写真自体が残っていない。
前回記事で述べた秀姑坪での討論以外、秀姑巒山登山時の印象というのは以下の下り程度の印象しかない。只管、上へ上へで心理的な余裕が無かったということだろう。何せ富士山より高いのだ。
中央金礦山屋を出て次のランドマークは、既に大水窟山の記事で紹介した白洋金礦山屋である。約三時間の行程、まずは歩き辛い(と記憶のある)灌木帯を抜けると、豪快な玉山連峰の稜線を背負うように登り、最後はギラギラするぐらいの細かい岩板が敷き詰められた急斜面になる。筆者は恥ずかしながら、その登りの殆どの間、玉山連峰稜線を八通関大山稜線と勘違いしていた。その辺りの経緯はこれまで何度も記事にしたので繰り返さない。
大水窟山の記事の中で、日本時代との関わり合いで白洋金礦を紹介した際触れなかったというより、その後台湾のサイトを渉猟していて判ったことが二つ。一つは筆者一行が目にした避難小屋は、これまで紹介したラクラク小屋と同じ構造の何の変哲も無い一個建てだったが、今に見る小屋は避難小屋から山小屋に格上げされたような格好だ。もう一つは、「台湾古道西段」の大水窟に至るまで点在する駐在所遺構を紹介して来たが、それと類似する石塁構造が、白洋金礦小屋から三分程中央金礦小屋方面へ下った場所に残存していること。これには筆者一行全く気付かなかった。或る台湾人ブログでは「駐在所」跡と紹介されているが、疑問。寧ろ、白洋金礦関連遺蹟と推測した方が良さそう。さてはて、それを確認しに何時同地点に戻って来れるか?
当時は天気が酷く良くて、喉の渇きが早く、それを癒すには誠に都合良く、白洋金礦山屋下に鮮烈な水が流れていたのを覚えている。そこを過ぎ、中央山脈鞍部である秀姑坪を目指す途中(この間半時間の行程)、或いは秀姑坪に辿り着いてから、何故か同小屋に引き返して水を補給したように思う。
秀姑坪は玉山圓柏原生林の華麗なる「墓場」として夙に有名な場所である。山火事で焼け残った幹が白木化したもので、墓場どころか、一大芸術庭園の態を為している。余りに芸術のレベルが高過ぎ、筆者はどうせ巷にはプロの写真家の作品が溢れているし―と拗ねて、数枚撮って終り。
秀姑坪(標高3,530メートル)から秀姑巒山までは標高差約300メートル、標準二時間強の行程、デジカメ写真の時間表示を見ると、筆者一行も同程度で登り切っているが、キツカッタ!(続く)
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