2014年03月15日

郡大山−6

tm-255.jpg tm-256.jpg tm-257.jpg
【写真説明】左写真は2014年2月現在の曾ては林務局護管所だった建造物の最新の用途を示す木製プレート。以前は予め入園申請してこの地の宿泊許可を取る必要があったが、今現在は、宿泊施設として必要不可欠な水の供給が、水源崩壊で不能な状態になっている為、開店休業状態だ。それでも快適な睡眠とトイレが確保されるので利用する登山客は相変わらず多い。中央写真は、廃棄された郡大林道上から南方面を望む。正面は八通関山西峰。右写真は、郡大林道の一風景、曾てここを自動車が通行していたことを物語る標識。下掲左写真は、観高登山サービス・センターと観高駐在所跡・観高坪を結ぶ登山道、「中の線」の生き残り。同右写真は、観高坪。同写真右側に写る指導標をそのまま少しだけ下ると今はヘリポートになっている観高駐在所跡。此処から八通関までは以前は約一時間の緩い登り、今は、その間が壊滅的な崩壊(この為、登山サービス・センターへの水供給がストップ)を起こしており、八通関山西峰北面を高く大きく巻いて八通関に降りる。その間四時間半の苦闘。。。

郡大山は前回5回目の記事で終りにしたのだが、最近になり、筆者としては通算四回目になる八通関古道西段行に恵まれ、観高駐在所跡下に設けられた林務局管轄の管理所と出遭っている郡大林道を初めて意識し、下山前の慌ただしい時間に僅かばかりの踏査を試みた。

過去三回の内、林務局観高護管所に立ち寄ったのは二回、「八通関大山−3」で紹介したように「観高登山サービス・センター」に替わっても、その当時、既に廃棄されてはいても、郡大林道が観高まで上がって来ており、更にマボラス山山麓方面まで伸びているのは知っていたが、鹿野忠雄が曾て頻繁に行き来した「中の線」警備道との関係で意識したことは無かった。

「中の線」とは何か?多分、現在出版されている鹿野忠雄の「山と雲と蕃人と」に附された楊南郡の註が最適かもしれないが、残念ながら手元に無い。手前味噌で誠に恐縮だが、以前『台湾の声』に投稿した「関門古道」の記事中に自身で附した註をそのまま抜粋する。「合流地点」とは、省道16号線終点のことで、丹大吊橋が掛かり、台湾最長のスーパー林道、丹大林道に替わる。

[抜粋始め]
註5「合流地点」:ここから濁水渓は合歓山山塊に向けて北に遡上、途中で中央山脈に向けて東に遡上するカ社渓に分岐。他方、丹大渓は中央山脈に向けて東に遡上、途中で南に遡上する郡大渓に分岐、郡大渓は上流で更に巒大渓に分岐する。日本時代、ブヌン族の群名に依って河川に命名された。これらの渓谷沿いには現在の台湾の市販の地図上にも夥しいブヌン族の旧社名が表記されている。特に、郡大渓沿いの旧社は鹿野忠雄の「山と雲と蕃人と」に頻繁に登場する。当時、謂わば、関門古道と八通関古道を結ぶ役割を果たしていた「中の線」警備道が郡大渓沿いに開削されていたからだ。これらブヌン族の集落は、昭和2年(1927年)の郡大蕃勧誘事件(大正 4 年、1915 年のダーフン事件の首謀者と目されていたラホアレが反台湾総督府勢力を秘かに郡大社に求めた事件)以降、台湾総督府により続々と濁水渓下流に強制移遷が進められる。ダーフン事件と郡大蕃勧誘事件の時間差に注目。如何に長期間に渡りブヌン族が台湾総督府に対し抵抗し続けたかが判る。
[抜粋終り]

1987年(民国76年8月)に上梓された楊郡南の『八通関越嶺古道西段調査研究報告』書中、106ページに附されたスケッチ「図十四:観高坪付近古道越嶺道及史蹟図」には、日本時代開鑿の八通関古道と郡大林道を結び更に同林道を超えて下る点線に「中の線」の記載が、林道と中の線が交差する付近に「木炭窯」の記載がある。少なくともこの二つを確認しておこうと意気込んでいたのだが、二つながら確認出来ず。中の線が郡大林道と具体的に交差し、更に郡大渓谷方面へ下る地点が判らなかったという意味で、登山サービス・センターと観高駐在所跡を経由し、古道上の平坦地、観高坪を結ぶ急勾配の登山道は明らかに中の線の名残りであることで満足せざるを得なかった。(終り)

tm-258.jpg tm-259.jpg
posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 郡大山(第52座:3,292m) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック