【写真説明】左写真は同じ飛び切り上等の新高山展望台である東埔山登山道から自忠駐在所・護管理所(同写真右端の小さな白い点が目印)方面を望む。児玉山(標高2,588メートル)は最も右側のピーク。中央写真は、阿里山森林鉄道林場主線旧「児玉駅」プラットフォーム越しに臨む新高山。右写真は児玉山頂上と新高山展望。その頂上には日本時代の遺物が二個、「官有林境界」碑と「森林三角点」、同写真には前者のみが写り、筆者の足元付近に三角点あり。筆者が児玉山を目指した唯一の動機が官有林境界碑を確認すること。その境界碑拡大が下掲左写真、同右写真は登山口付近の植林地帯を児玉山に向かう岳人。
実は児玉山については、筆者の別ブログ『台湾古道』で紹介済みだ。まずはそのまま当該記事引用し、新高山展望台としては極めて秀逸の一座、児玉山紹介の前書きに代えたい。
[引用始め]
[阿里山森林鉄道と玉山登山]−2
前回記事で紹介した「児玉」は、第四代台湾総督児玉源太郎に因んだと謂われる地名で、現在はこの旧地名は無くなったが、現在の自忠山(標高2,606メートル)は登山愛好家には「児玉山」と呼ばれている。現在自忠と改名された場所には、派出所・護管所があり、それらの建物の道路を隔てて向かい側に旧児玉駅のプラットフォームが残っているが、それがプラットフォーム跡だと気付く観光客は少ないと思う。
又、派出所・護管所脇に「特富野古道」の案内板が立っているが、この場所は嘗て水山林場支線の起点で、今は支線の線路は外され全長約6キロの歩道として整備し直され、この辺りに居住していたツォウ族トフラ社に因んで古道名が付けられている。
更に、嘗ての新高口駅は今は観光客用の駐車場になっているが、何の標示も無いのでここが当時の最前線の登山口だったことを物語るものは一切残っていない。但し、同地は同時に霞山林場支線と石水山林場支線の起点だった為、両支線とも既に軌道は撤去されてはいるが、両支線の入口はちょっとした広場になっているので目印になる。ここからの新高山歩道は、戦後は玉山林道と名を変えて暫くは登山道として使われていたはずだが、今は入口すら判らない程に荒廃している。
このように、往時は旧阿里山駅からは複数の地域に林場線、更に支線と呼ばれる木材運搬用の軌道が延ばされていった。現在の阿里山から塔塔加ビジター・センターまでの省道18号線、即ち新中横は、タータカ林場線の軌道を外し自動車道化したもので、現在のビジター・センターは当時木材集材場だった場所だ。
台湾鉄道ファンの方の中には、台湾山間部に今でも残る日本時代に敷設された木材運搬用の旧軌道を丹念に調査していらっしゃる方もいるかと思うが、旧阿里山鉄道林場線、林場支線に関しては廃棄された軌道はどんどん外され姿を消しつつあるというのが私の印象である。
[引用終り]
つい最近まで「自忠」を「三民」とか「民生」とか同じ国民政府プロパガンダ用語と勝手に思い込んでいたので、以前の私の児玉山=自忠山の説明に、「自忠」の用語解説を施したことはなかった。寧ろ、何故この阿里山山中に児玉源太郎の名前を冠したのか?という素朴な自問に答えるべく、台湾のサイトを渉猟していると、逆に自忠とは人名であることが判った。「抗日英雄」の文字が目に入った。そこで興味が失せて調査ストップ、それでも台湾での抗日蜂起を指揮した人物だろうぐらいに勝手に思い込んでいたのだ。
この新高山の第四回目の記事を書くに当たり、自忠殿は一体何者か?はっきりさせておこうと思い再度調べると、台湾そのものとは何の関係も無いのだが、国民政府の偉い軍人さんだということが判明した。日本軍と戦い1940年壮烈な戦死を遂げたとある。日本への訪問履歴もあり。ウィキペディアの「張自忠」を参照までに。つまり、「三民」とか「民生」ではなく「中山」とか「中正」と同じ方式というわけだ。
児玉源太郎が張自忠に取って替わられたのは、国民政府の対日史観故である。前者は侵略者であり、後者はその侵略者の後輩を向こうに廻し果敢に戦ったというわけだ。では、何故、阿里山山中の特定の山に児玉源太郎の名を冠したのだろうか?つまり、阿里山と第四代台湾総督との接点なのだが、まだ調べは付かず。
児玉の台湾総督としての任期は明治31年〜39年(1898〜1906年)である。試しに、阿里山森林鉄道の建設開始は明治39年、沼平までの本線全線開通は、大正3年(1914年)である。鉄道建設前に視察に入ったことは十分考えられる。
もう一つの可能性としては、民政長官後藤新平治下を考慮し、日本統治への抵抗勢力が阿里山中に依り活動中だったというもの。実際そのような事実があったかどうかを調べるにはもう少し時間が掛かりそうだ。。。なんて書いている内に、世の中にはこんな人も居るんだ!の典型みたいなサイトにぶち当たった。1940年生まれ、国鉄マンの北山敏和氏による『鉄道いまむかし』という博覧強記の大作だ。その中の一編、「明治期の台湾縦貫鉄道の建設」の中の一番最後が「阿里山鉄道計画」という項で、ここに私の前述の自問に対する正解と思われる記述がある:
[引用始め]
「 1899年、時の台南県技手小池三九郎氏は官命により台湾南部森林を探険した際、偶然阿里山一帯が太古そのままの檜の一大森林地帯であることを発見した。これを聞いて長谷川技師長は直に鉄道部技手飯田豊二氏等を派遣し調査させたが、森林は広大で有用材は豊富だがその搬出は至難であるとの報告を得た。」
(中略)
「 続いて1902年5月林学博士河合市太郎氏が総督府の特命により阿里山一帯の森林を踏査し、林相優秀、材質佳良、蓄積豊富なりと復命された。そこで後藤民政長官は経済的利益のため森林を開発を考え、翌1903年秋、鉄道敷設に関し長谷川技師長に調査を命じた。」
(中略)
「 1904年10月後藤民政長官は祝殖産局長、長谷川鉄道部技師長、河合林学博士、その他多数関係者を伴い、嘉義より阿里山に至る森林鉄道計画線路を実査し、親しく阿里山の森を視察し事業の有望なるを確認し、遂に意を決して事業経営案を1904年末の議会に提出しようとした。
しかし日露戦争が勃発し財政に余裕がなく内閣の同意を得るに至らず、そこで1905年日露戦争終結後その再挙を図ったが依然財政窮乏のため新事業の遂行を許されず、近い将来での起業の望みはなくなったので、後藤長官は官営を断念し大阪の藤田組に交渉して事業を経営させることになった。」
[引用終り]
いずれにしても、少なくとも児玉の懐刀(ふところ・がたな)だった後藤は現地入りしている。そして、少々飛躍するが、台湾岳人には今でも児玉山の方が遥かに通りが良いのは、台湾サイト内の山行記録を見ていても判る。
阿里山公路(省道18号線)脇に入口を設けられたトフラ古道は、前述したように水山林場支線を利用したもの、この入口から更に省道をタータカ方面へ辿ると、今は観光客用駐車場になっている「新高口」駅跡に至り、そこは同時に石山林場支線と霞山林場支線との合流地点でもある。台湾岳人は、水山支線起点、或いは、石山+霞山支線合流点のどちら側からか入山し、児玉山と東水山(別称水山、標高2,611メートル)の縦走を試み、同時に、トフラ古道探訪も組み合わせてしまう。
私の場合、トフラ古道を往復した後は、かなりの日時を経て、トフラ古道入口をほんの少しだけ辿った場所に登山口を持つ児玉山のみを目指した。唯一の目的は、同山頂上に残る、日本時代の謎の石碑を確認すること。事前にざっと台湾岳人の山行記録を二、三ざっと目を通し、登山口から半時間で頂上まで辿れると踏んで駆け上がったのだが、たっぷり1時間掛かり、疲労困憊した。後で調べたら、登山口、即ちトフラ古道入口付近の標高は2,300メートル、児玉山頂上が2,588メートルなので、落差約300メートル、半時間はちときちかったと理解した。それでも往復二時間で絶景をいとも容易に刈り取れる。。。贅沢の極みだ。
頂上は上掲写真に見えるように低い樹木に覆われているがそこに辿り着くと近くで風船を弾けさせたようにスコンと青い天が広がっており思わず歓声を上げた。官有林境界碑は根元で折れており、元に戻し即席の修理は行われるが、又、折れる。私が辿り着いた時は、今回掲載の写真の通り、ビニール・テープに支えられていた。角柱四面の内、三面に「官有林境界」、「第四林(班?)」(「班」の部分はビニール・テープで隠され確認出来ず、筆者の想像)、「大正六年三月 營林局」が各々刻まれているが、残る一面にも何か刻まれていたかどうか?忘れたというより、車を待たせてあったので、あたふたと駆け降り確認する余裕すらなかったというのが正しい。大正六年は1917年なので既に百年近く同地に起立していることになる。(続く)
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