2009年06月06日

卑南主山−1

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【写真説明:写真はクリックして拡大】これらは丁度五年前の石山工作站の様子である。現在どうなっているのか、ネットにアップされている山行記録に写真を貼り付けている奇特な方がいないものかざっと探してみたが見当たらなかった。文字の記録のみを追い駆けてみると、今もそのままのようだ。林務局の作業小屋といっても、もっぱら登山者の便利に供されていると考えた方がよさそうだ。

現在の林道が日本時代の原住民に対する警備道をベースにしているのであれば、非常に面白い。

但し、何らかの資料があればの話だ。石山林道は、高雄県桃源郷藤枝森林遊楽区の一番高台に入口がある。立派な検問所があり、同林道に入るには入山証取得が必須である。この森林遊楽区の入口は同県六亀郷になるのだが、入山証を発行するのは、桃源郷の管轄、森林遊楽区内にも駐在所があるのだが、当時はそこでは入山証を発行してくれなかった。当日に入山証を得ようと思えば、桃源郷の郷公所のある桃源まで出掛けなければならなかった。今はどうなっているか判らない。

さて、藤枝森林遊楽区はもう一本の林道の入口にもなっている。出雲山林道である。ここは崩壊が激しいとのことで、少なくとも当時は人も車も入れてくれなかった。見晴山、出雲山、内本鹿山への登山道として使われていた。これも今はどうなっているか?崩壊の激しいのは石山林道も同じで、大きな台風が来襲した後は決まって入れなかった。まあ、こんな調子だから、このような林道はますます神秘性が増すというわけだ。

石山林道は、中央山脈南一段へのアクセス道路として利用される以外に、渓南山(標高2,650m)、石山(2,818m)へのアクセス道路としても利用されている。後者二座は林道に入れれば、日帰りで登れる。渓南山は高雄県十名山の一座である。その麓には、渓南鬼湖という湖沼がある。石山はその名の通り、奇怪で巨大な岩峰を擁する。追って紹介する予定である。

内本鹿警備道は、日本時代のブヌン族内本鹿社の子孫に特別な扱われ方をしている。日本時代に強制移住させられた歴史があるからだ。先祖回帰の道とでも呼べようか?日本人に依る優れた論文もある。現在の山行記録を見ると二週間ぐらい掛けて歩いている。八通関古道の総延長が100キロで、そこは一週間強で歩ける。内本鹿警備道の古道として扱われている総延長が100キロを越すとは思えない。何故、二週間も掛けなければならないのか?いずれにしても、足腰が丈夫なうちにどうしてもこの旧警備道を歩いてみたいという希望は強い。

内本鹿警備道は、現在の高雄県六亀と台東県鹿野(日本時代の鹿野開拓村)とを結び、中央山脈の見晴山(2,720m)と出雲山(2,772m)の鞍部を越えていたようだ。いたようだと書いたのは、私自身は確かな資料を持たないからである。毛利之俊原著の「東台湾展望」にも内本鹿警備道の紹介が出ているが、扱われているのは東段のみで、中央山脈西側、つまり西段のコースが全然判らなかった。

同警備上に、見晴、出雲の駐在所は存在していたので、私は、現在の出雲林道が警備道を襲ったものだと考えていた。他方、石山林道脇にも駐在所跡が残っているのは知っていたが、現場に行ってもその痕跡が消失しているので場所を特定出来ずにいた。つまり、内本鹿警備道は、今は石山、出雲林道の両方の何処か一部分と共有されているのだろうと、今まで漠然と、そして都合よく考えていた。

今回の記事を書くに当たりあらためて少し調べてみた。その結果、恐らく間違いないと思われるのは以下の通りである:

●石山林道は内本鹿警備道の西段の一部を形成する。その石山林道さえ崩壊が激しく、石山工作站から先をそのまま辿るのは最早難しい。

●現在は、旧警備道東段に至るには、卑南主山以南の中央山脈南一段稜線を辿るしか手がない。

●六亀と藤枝森林遊楽区までを結んでいる藤枝林道([艸/老]濃渓林道)が内本鹿警備道の西段端に当たりそう。但し、西段全段にどのように駐在所が配置されたのかはいまだに判らない。確実なのは「藤枝」のみ。同森林遊楽区内に跡が残る。

さて、「内本鹿」を当時の日本人はどう発音していたのだろうか?どうも「ないほんろく」らしい。何故このような漢字をブヌン族社名に充てたのかは更に判然としない。鹿野村の鹿と関係があるのだろうか?いずれにしても、今は台湾人は日本時代の地名等を北京語読みで発音してしまうので、はて、日本人は当時何と発音していたのか?と考えた時、俄かには確定出来ない場合が非常に多い。例えば、以前のブログ記事「蘇花古道」でも書いたが、「清水断崖」の清水を何と発音していたのか?明らかに「しみず」ではない。「八通関」は「はっつうかん」と発音していたとご教示してくれた同氏に、「せいすい」だと教えていただいた。(続く)
ラベル:台湾 台湾百岳
posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | 卑南主山(第50座:3,295m) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
石山林道と如何いう風に重なるのか重ならないのか分かりませんが、林古松氏の『関山越嶺古道研究報告』の第5次調査を見ると宝来の東側にも多くの支線(ではなく、六亀警備道?)があるようです。そしてそれらはもし重なってなくても通じていただろうと想像します。六亀警備道の藤枝駐在所が内本鹿西段と共通の駐在所だとすればなおさらです。如何でしょうか?

「何故、二週間も掛けなければならないのか?」、一つの理由は崩落が激しいと言う事のようです。紹介されている論文中でも分かりますが、最初から延平林道の迂回路です。また、桃源在住の人に拠ると途中の桃林、橘駐在所跡に行くのには古道は通れず西亜欠山から片方に行き戻ってもう一方に行くのだそうです。そして、桃源⇔楓も迂回路で往復3日で行けない事はないが、それは夜の渡河になり、安全な昼間にするには4日が必要との事です。日本時代の警察官の書いた本《遥かなるとき台湾》を読むと「桃林勤務の時、その妻が子供を負ぶって早朝出発し紅葉渓1泊で鹿野に行った。更に自身は壽1泊でその近くの調査に行って帰ってきた」とありますので全く違いますね。

内本鹿の読み方について、ブヌン族が最初に住み始めたのが壽付近のMadaibulanだそうです。桃源の老人に拠りますと「ある日ブヌン族人が猟に行って人に出会ったので何処の人か訪ねると“Laipunuk的人”と答えたのでそこを“有Laipunuk的人住的地方”と呼んでいた」そうです。後、それを漢人が「内本鹿」と書いたらしいとの事です。こんな事ですから日本時代は「ないほんろく」だとの事です。
Posted by メイウェンティ at 2009年06月17日 13:19
内本鹿の読み方について、≪台湾蕃人事情≫伊能嘉矩・粟野伝之丞(台湾総督府民政部文書課)明治33年3月発行復刻版(草風館 平成12年)の中に「シブクン」蕃中の社、内本鹿社としてヲイブンロクのルビがあるのを見つけました。
Posted by メイウェンティ at 2009年08月03日 11:11
≪台湾蕃人事情≫中のルビについて、“ヲイブンロク”ではなく、“ライブンロク”のようです。文中の他の“ヲ”の活字は現在と違って下の“一”が“フ”を貫いています。ですからインクの加減で“ラ”が“ヲ”になったものと思います。
Posted by メイウェンティ at 2009年08月05日 16:15
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