2009年04月04日
畢祿山−2
【写真説明:写真はクリックして拡大】畢祿山に登った時は、一眼レフと100メガ・ピクセルのしかない馬鹿ちょんデジカメ両方を持参したのだが、一眼レフで撮影したスライドが見付からず、今手元にはデジカメで補助的に撮影したものしか残っていない。特に難物の八二○林道の状況をデジカメには納めていない。そのうちカラー・スライドが出て来たら新ためて紹介することにして、今はデジカメで撮影した少ない枚数の中から選択せざるを得ない。左写真は八二○林道が終わり畢祿山への取り付きに掛かる部分での露営状況。中央写真は露営地近くの沢。ここで何枚も花の写真を撮ったはずだが残っていない。右写真は、原生林地帯に入った後で出食わした、ちょっとした垂直壁の登り。多分、八二○林道経由の畢祿山登山の核心部だろう。登山者が多ければここで大分待たされることになるが、なかなか楽しめる登り。写真で見るよりは実際スリルがあった。
さて、前回は登山時間のことを少し書いてみた。山行の度に実に念入りに記録を残す篤実な登山者は日本にも台湾にも居る。私も日本に居る頃はその部類だったのだが、台湾の山に登り始めてからはそんなことは全くしなくなった。以前はそんな記録は日記みたいなもので、大部分の人が公開することを意識はしていなかったはずだ。しかし、私も含めこうも万人が即席の著述業に携われるようになると、丁寧に付ける山行記録は別な意味を持ってくる、ということに台湾に来てから気付いた。何より私自身がネット上で公開されている山行記録を実にまめに見ているからである。この事情は日本と台湾では大分異なる。
日本では一般の山行者向けの出版物は恐ろしい程に充実している。赤子でも山に登れてしまうのではないかと思えてしまうぐらいだ。それは山の多さと登山を目的とした登山の歴史故かと思う。その点では、簡便に高山に登れ、しかも冬季登山の危険度は日本の比ではない台湾での登山啓蒙活動は「遅れている」。日本のようにガイド、地図等の出版物は圧倒的に少ない。それでも、一誌のみだが、台湾山岳に関する立派な定期刊行物「台湾山岳」が存在する。但し、ネット上には夥しい山行記録がアップされているので、どの山にターゲットを定めても記録は引っ張り出して来れる。問題は登山口に至るまでで、どの百岳も玉山、雪山登山口に至るようにはいかない。公共の交通機関だけを利用していてはとても入って行けないところが殆どなので、一番便利なのは、やはり地元の山岳会、登山用品店等を通じ登山行を申し込むなり、アドバイスを求めることである。大きな都市であれば、必ずそこを拠点に登山活動をしている団体が多く存在する。
このブログの目的は登山ガイドではない。読者の方々に台湾の山に興味を持って貰いたい、そこまでである。本当に登ってみたい方は、前述のような方法を取って貰いたい。一つだけアドバイス出来るとすれば、夏場の台湾登山は計画しない方がよいということ。何度も書いたが、台湾の半分は熱帯に属する。
「遅れている」と表現をしたが、揶揄したり批評したりしているのではない。台湾に於ける登山活動というのは日本時代は実に盛んだったことは、「台湾山岳」の掲載される当時の山行記録(但し、中国語に翻訳)等を通じて垣間見ることが出来る。多くの記録、映像、研究、評論が残されたはずだが、戦後、日本が台湾を放棄し、更に世界の歴史上極めて特異な四十年弱(正確には1949年5月20日から1987年7月14日まで)に渡る戒厳令期を通じ、自由な登山は阻害され(多くの山が軍の管制下に置かれ、地図も容易には閲覧、出版出来なかったのではないか?)、日本時代に蓄積された台湾山岳に関するこれらソフトは散逸し、嘗ての登山熱は冷めたのではないかと想像されるからである。
畢祿山について書かなければならないのに随分脱線してしまった。(続く)
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