2021年01月02日
屏風山−2
【写真説明】明けましておめでとうございます。今年も引き続き本ブログをお引き立てお願い申し上げます。今回の投稿記事より、先の「俯瞰図」の中の投稿記事の某月某日のメモを繰り返しながら、屏風山の登頂を簡便に追い掛けることにする。
「大禹嶺表示板手前の登山口から渓底までは急下降⇒渓底から登り始め一本の沢を渡った後崩壊した斜面を急登、踊り場まで登り切ると、後は鉄線橋に至るまで緩やかな下り、途中一本乾季の間は枯れそうな沢を渡る、又、金鉱に送電していた名残りの電柱に遭遇、最後は鉄線橋に向かい下降、鉄線橋を渡り切ると豊富な水量を持つ水場を備えた露営地、暫く急登した後は、松林の平坦地が露営地まで続く。露営地から暫く坂を登るとやがて平坦地に移り金鉱まで続く。鉄線橋上部から金鉱までの登山道は松を主体にした美しい樹相を呈している。」左写真は登山口に立てられた屏風山登山に対する注意警告板。中央写真は登山口からいきなり急降下した先の着地点、タッキリ渓支流、その間の落差は250b程度。そのタッキリ渓を渡り切ってしますと、急登に転じるのが右写真。「タッキリ」には「塔次基里」等の漢音訳を充てているが、日本語漢音訳の「立霧」が最も優雅だ。(続く)
2021年01月16日
屏風山−3
【写真説明】屏風山への登山以外に期待していたのは、通称合歓金礦(鉱)跡を見ることだった。当時は日本時代の開鑿だと漠然と考えていたからだ。この記事を起こすに当たり改めてネットを渉猟してみると、当該情報は筆者の想像より極端に少なくしかもそれらは同じ新聞(聯合報)の記事に依っている。屏風山も含め台湾の金採掘の歴史を概観したものは河内文化社のオンライン台湾百岳(「線上臺灣百岳全集」)が秀逸だと思う。いずれにしても、最近の開鑿は1975年に屏風山合歓金礦公司が採掘権取得、1979年に採掘開始、その後日本の会社も協力した模様だが、三年以内に採掘を放棄したようだ。以上のような採掘履歴なので登山道上で目撃した金鉱残骸は上掲の左・右の写真のみ。同列中央写真は、下掲左写真の屏風山登山道のマイルストーンの一つ、鉄線橋下の立霧渓、同写真上側が上流、嘗ての金鉱方面である。鉄線橋は登山道の最低部、2,000bを割り込んでおり登山口との標高差はマイナス約500bもある。登山口から急坂を下り立霧渓支流底に至った時はその下りに失望したものだが、更に大下りを経ていたことには気付かなかった。下掲中央写真はベースキャンプ、通称松針営地、文字通り松林が美しい。右写真はその細い水場。(続く)
2021年01月30日
屏風山−4
【写真説明】某月某日のメモに曰く「金鉱を過ぎると四本の沢を渡るが、一本目の沢両側の崩壊は激しく危険、四本目の沢が過酷な急登の始まり、頂上稜線までの登山道は殆どロープを張り巡らされ急登を強いらされる。稜線直下は原生樹林の中の急登であるが、その下はドン突きに頂上稜線から岩場が迫り出た狭い長いガレ場になっており、全登山道の中で最も危険、台風等大雨後にこの場所を登るのは落石の危険甚大で自殺行為。」上掲左写真は松針営地と金鉱跡迄の間に広がる松林(二葉か五葉かは忘れた)。二枚目写真は金鉱跡附近から望める頂上稜線直下のガレ場、三枚目写真は最後の沢、ここから頂上稜線まで約800bの落差のある直登に転じる。下掲左写真はその途中目撃した警告板、標高等を示す標示板等無く、一体どの位の位置にあるのか?皆目見当付かず苦しい登山を強いられた。二枚目写真は台湾鉄杉の原生林。三枚目写真は上掲二枚目写真のガレ場の現場。右写真は頂上稜線への最期の登り。(続く)